愛の十字架 1

  



どうしようもなく、心が騒ぐ。
乱される。
――…このオレが、何故ここまで。
あんな……ガキに。





「ただいま」
「――…ちっと待て」




さも当然といわんばかりの顔で、部屋に入ってきた学ランの肩をグッと掴む。
振り向く顔は、ふてぶてしさ満杯で。




「――…んだよ」
「んだよ、じゃねェんだ、甥っ子。テメエんちはここじゃねェ。ただいま、っつって帰ってくんなと何遍言ったら」
「わかんねェよ」
「あ?」
「わかんねェよ。何千回。何万回言われてもな」




バサ、と脱ぎ捨てた学ランからは、埃と汗の匂い。
少し眉を顰め、サンジがそれを指先で摘み上げる。





「――…いい加減。鍵、返せっつってんだろうが」
「返さねェ」
「どうして。もう、ひとりで留守番出来ねェ歳じゃねェだろ?オレだっていつまでも、テメエの面倒ばっかり見てられねェんだよ」




パン、と音を立てて学ランを払うと、スルリと衣紋掛けに吊し、カーテンレールに引っ掛ける。
不機嫌丸出しな顔で振り向き、文句を言おうと口を開いた途端。




「腹へった」
「――…あ?」
「腹へった、サンジ」





見つめ返すサンジの瞳を真っ直ぐに見つめ、甥っ子がニヤリと笑う。





「テメエの作ったメシが食いてェ」





――…狡ィヤツだ。
その言葉を口にすれば、サンジが逆らえないことを知っている。
腹を空かせた甥っ子を、突き放せないことを――…知っている。





「…チッ。――…座って待ってろ」





自分は、料理人だ。
腹を空かせた人間を、突き放すことなど出来ない。
それは、サンジが料理人になってからずっと、掲げてきた誇りなのに。
もしかしたら自分は今、その矜持を言い訳にしているのではないのか、と。
そんなふうに思ってしまう自分が、情けないし、酷く悔しい。





甥っ子――…ゾロは、姉の子だ。
といっても、実の子ではない。
姉の結婚相手が連れてきた、亡くなった前妻との間の子だ。
初めて会った時、サンジは高2。
ゾロはまだ、幼稚園の年長さんだった。




『――…髪の毛、なんでキラキラしてんの…?』




切れ長の瞳をまん丸くして自分を見上げてくる、小さな子ども。
大地を思わせる緑色の短い髪も、真っ直ぐな眼差しも、意志の強そうな口元も。
およそ子どもに似合わない、強いものだったのに。





『――…ゾロのおめめも、金色で、キラキラだな?おんなじだ』




一瞬見せた、そのあどけない表情を――…
酷く、愛おしいと思った。
守ってやりたい、と思った。





サンジの感情とリンクしてか、ゾロはサンジによく懐いた。
仕事の忙しい姉夫婦は、これ幸いとサンジにゾロの面倒を押し付けた。
真っ直ぐに懐いてくるゾロのことを、サンジも、部活を辞めてまで面倒を見た。





幼稚園にお迎えに行って。
手を繋いで歩きながら、今日の出来事をおしゃべりして。
家に帰って、一緒におやつを手作りして。
ゾロがテレビに夢中な間に、夕飯を作って。
姉夫婦が仕事で帰れなければ、風呂に入れて、サンジのベッドで一緒に眠った。
体温の高いゾロの小さな体は、ほこほこしていて暖かかった。
サンジの両親も忙しく、いつもひとりで居ることが多かったから、ゾロのいる生活は、サンジにとっても嬉しいものだった。
ふっくらしたほっぺに頬を擦り寄せてやると、小さな手でギュッと抱き付いて来るのが、愛おしかった。




サンジの実家はマンションを経営していて、その1階では、祖父がレストランを開いている。
調理師の専門学校を卒業してからは、サンジは今、その5階にひとり暮らしをしている。
サンジが専門学生の間は、まだ、ゾロの放課後の面倒も見てやれたが、見習いとして祖父のレストランに入るようになったら、
もうそれどころではなくなってしまった。
ゾロは、5年生になっていた。
もう、誰かが傍に居なければ危ない歳でもない。
でも、サンジはゾロを突き放すことなど出来なかった。
自分を見つめるゾロの瞳を見たら、『忙しいから、もう来るな』とは言えなかった。





『おにいちゃんは、お仕事を始めて忙しくなっちまったから。来たくなったら、いつでも来ていていいぞ。夜には必ず帰って、
うまいモン作ってやるからな』





そう言って渡した、一本の鍵。
受け取って、見上げた瞳の嬉しそうな輝き。
パアッと上気した頬を見て、サンジは思わず微笑んだ。
――…こんな可愛いの、放り出せるハズがない。







『サンジ』





ある晩、仕事を終え、くたくたにくたびれて玄関ドアを開けた瞬間、くぐもった声が漏れてきた。
ハッ、と足を止める。
荒く乱れた吐息。
低く呻く声。





『サンジ……』





衝撃で、頭が真っ白になった。

『おにいちゃん』

全開の笑顔で、小さな手で、可愛い声で、真っ直ぐな眼差しで。
ひたすらに、いじらしいほどに懐いてきてくれた、あの小さなゾロが――…





『ッ…あ、サンジ…、サンジ…ッ!……ッ!』





ビク、ビク、と体を震わせる、ソファの向こうの若々しい背中。
まだ少年のあどけなさの残る肉体が、自分を求めて熱を吐き出している。





(中学2年生――…)





考えても、みなかった。
ゾロは、いつの間にかもう、そんな歳で。
そして、自分を、そういう対象として見ていて。




いつから。
いつから。
グルグルと目の前が回りながら、でも、そんなことはどうでもいい気がした。
あの、若い肉体が。
自分を求め、自分の名を呼びながらひとりでイく姿を見て、こんなにも体が熱くなる方が、よほど。





『サンジ…』





熱を吐き出した後、ぽつりと呟いたゾロの声。
ゾロの想いを、熱さを、願望を、余すことなく滲ませた、小さな呟き。





(―――…やべェ……)





あっちゃならねェ。
こんなこと――…
絶対に、あっちゃならねェ。





ゾロ、テメエはオレなんかを相手に、そんな想いを抱えてちゃならねェだろう。
テメエは、可愛いレディと真っ当な恋愛をして。
そんでオレは、結婚式に呼んで貰って。
子どもが出来たら、お祝いに駆けつけてやって。
たまに酒とか酌み交わして、男同士の話をしたりして――…





ゾロ、テメエを。
オレなんかのせいで、汚しちまうワケにはいかねェんだよ――…!






『――…ただいま、ゾロ』
『ッ!!い、いつ帰ってきた!?』
『いつ、って。今だよ。ああ疲れた。ゾロ、腹へってねェか?おにいちゃん特製の、ホットケーキ作ってやろうか』





わざと、楽しげな声で。
わざと、子どもに向けるような優しい口調でそう言うと、ぐ、と拳を握ったゾロが、低く、低く呟く。






『――…もう、よせよ。そういうの』
『――…あ?』
『子ども扱いすんな。いつまでも――…ガキじゃねェんだ』
『っ…だって、充分ガキじゃねェか。おにいちゃんと、いくつ年の差があると思ってんだ?10だぞ?年が明けりゃ、
おにいちゃんは25に――…』
『サンジ』





真っ直ぐな、凛とした声。
いつの頃からか、ぐんと深みを増した声。
なのにどこかまだ、少年のあどけなさの残るハスキーな声が呼んだ初めての自分の名前に、サンジが思わず黙り込む。




『おまえがそうやって誤魔化すつもりなら、それでもいい』





射るような、金色の眼差し。
いつの間に、こんなに背丈が近くなっていたのだろう。





『だけど、逃がす気はねェぞ』
『――…ゾロ』
『最初に言っておく。オレは、世間の目、とか、大人の事情、とかいうくだらねェ建て前で、自分の感情を殺す気はねェ』





潔い言葉。
ありのままの感情。
流されたいと思う心と体を、信じられない思いで、サンジは必死に引き戻す。





『――…おにいちゃんには、何のことだか…よく、わからねェな』
『怖いなら、無理強いする気はねェよ。おにいちゃん』
『な――…っ!』



瞬時に『バカにされた』と感じて顔を紅くしたサンジに、ゾロがニヤリと笑ってみせる。





『おまえが望むなら。そうでなければ傍に置けない、っつ―んなら。これまで通り、可愛い甥っ子を演じてやるぜ?』
『――…望まねェよ。演技だとわかってて、可愛いとなんざ思えっか』
『じゃあ――…攻めて、いいんだな?』





低く艶を帯びた、ゾロの声。
サンジは必死に震える心を宥めて、ゆっくりとゾロに正対する。





『――…ガキが。調子に乗ってんじゃねェぞ?悪ィがオレぁ、テメエが思うほど綺麗な人間じゃねェぜ?』
『知ってるさ。女たちとも適当に寝てるし、前、男の恋人だって居ただろう?』
『―――…!!』
『だから、オレを甘く見るな、っつ―んだよ、おにいちゃん。オレが、どんな気持ちでいたかなんて知らねェだろ?
アンタがあの男の下で、どんな顔して喘いでるのか、どんなふうにヨガってるか、毎晩毎晩想像しちゃ自分でヌイて』
『ゾロ!!』





叫んだ声は、悲痛なものだったかもしれない。
ゾロはふっと唇を噤むと、真っ直ぐにサンジを見詰めた。
そらせない。
金色の光が、強くサンジを射る。





『――…覚悟しとけよ。おにいちゃん』





ゾロはそれだけ言うと、スポーツバッグと学ランを拾い上げて、スッとサンジの脇を通り過ぎた。
瞬間香る、汗の匂い。
ちっちゃくて可愛い甥っ子の、甘い甘い匂いは、とうに消えて。
今、ゾロが纏うのは、ひとりの――…男の匂い。





パタンとドアが閉まる音と共に、膝から力が抜けた。
思わず床にしゃがみ込み、大きく息をつく。






ゾロが―――…
――…ゾロが。






咄嗟に携帯電話を取り出して、昔の男にコールする。
3コール目で出た相手に早急に会いたいと告げ、迎えに来てくれた男の車の中で、縺れ込むようにセックスした。





『どうしたのさ、サンジ――…今夜はまた、酷く乱れたね?』
『――…』
『スッゴく、善かった。サンジが、気持ちよくて堪らない、ってカオしてくれたから』
『――…エース』
『ん?』
『エース――…』





呟いて、頬を寄せる。
顔を埋めた胸板からは、微かな汗と、煙草の匂い。
ゾロではない。
名前も、匂いも。
ゾロではないのに――…





『サンジ』
『――…ん』
『オレに、抱かれながら。――…何、考えてた……?』





ノロノロと顔を上げる。
柔らかな漆黒の瞳が、どこか鋭い光を帯びてサンジを見下ろす。





『――…とうとう、あの甥っ子くん。攻めに転じたかな?』
『なんで――…』
『傍目から見て、モロわかりだったからね。ちっちゃな体で、目つきだけいっちょ前に男の目をしてさ。まるで虎の子みたいに、
精一杯、オレを威嚇してたもんな』
『―――…』
『剣道で、何連覇もしてるんだろ?あの子。よほどサンジと同じ場所に立ちたいんだろうなあ』
『――…オレは…アイツに応えてやる気は、ねェよ』
『ねェ、サンジ。大切にし過ぎることと、臆病になり過ぎること。よく似てるよね』
『――…オレが臆病だ、って言いたいのか?』
『一般論だよ。オレも昔、カッコつけるあまり臆病になり過ぎて――…サンジを失ったからさ』





思わず見上げたサンジの瞳に、エースが柔らかく笑む。





『甥っ子くんは、精一杯に真っ直ぐぶつかってくるだろうから。サンジも、覚悟しないと』





――…覚悟しとけよ。





艶のある低く掠れた声が不意に耳元で蘇り、小さく躰が震える。





『――…』
『で、切羽詰まったらまた、今日みたいにいつでも呼んで?役得だったなあ、今日は』
『――…バカ』





ニコニコと笑うエースに呆れたように笑い返し、サンジはそっと目を瞑る。






自分を抱く、大きな手が、熱い吐息が、自分を貫いた男根が。
――…アイツのものだったら、だなんて。
そんなことを思いながら、抱かれていたなんて。
だからあそこまで、燃え上がってしまっただなんて――…





『――…エース』
『ん?』
『この先も――…マジで、頼むかもしれねェ』
『そりゃ、願ってもない話だね』





おどけたように笑って、小さくキスしてくれたエースの存在を、あんなにも、ありがたいと思ったことはない。
だからこそ――…
サンジはあれから二度と、エースに連絡を取れずにいる。






そして。
断ちたいと思いながら断ち切れない、自分の感情をどこかでわかっていながら、認められないまま。
ゾロも、何も行動を起こそうとはしないまま。
――…あれから、3年の月日が、流れていた。






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