酒菜あみ
大学3年目の夏が終わると、急に階段がずいっと向こうからやってきたような気になった。大人への階段――なんていうと、ガラスの靴でも履いて上るような感傷的な眩しさがあるけれど、現実はきっと革靴をすり減らして行かねばならぬのだろうという切迫感を乗せた、階段。サンジは決して子供のままでいたいなんて思わないし、卒業後にやりたいことも決まっている。それでもやっぱり、二十歳になっても大人になった実感なんてなくて、今が一番幸せなのかも、なんてことも思うので。だから、つまり。
『夫を誘惑して欲しいの』
そのように聞こえてしまったのは、大人への階段はやっぱりキラキラしていたのだと思いたい自分の耳が、おかしくなってしまったせいだ。およそ数秒の間に自らを振り返って、サンジはそう結論付けた。
だって言葉を発したのは絶世の美女で、サンジの憧れのひとだ。彼女がそんなことを言うわけがない。そう、きっと、『ホットの湯を沸かして欲しい』とか。ホットの湯ってなんだ。いやそれはたぶんツッコむところじゃない。
緑が多くておしゃれなオープンカフェは、サンジが選んだ。いつか素敵な女の子と一緒に来たいと、大切にとっておいた場所。目の前の彼女から電話がかかってきたとき、真っ先にこのカフェが思い浮かんだ。残暑はあれど、日差しは穏やかになってきた。緑が影を作り、ほどよい風が心地よい。まさに、オープンカフェデート日和。本当は動画に撮っておきたいぐらいに、貴重な時間。舞い上がって彼女の言葉を聞き間違えるなんて、とんでもないことだ。
ほわんと見つめるサンジに、彼女は可愛らしく首を傾げた。光を受けるとほのかに青みを帯びる黒髪が美しい。6つ年上というだけでなく、顔立ちも物腰も大人の女性の雰囲気を持つ彼女は、そのくせ時折少女のような表情も見せる。普段から何度も胸を撃ち抜かれている状態なのに、そんな表情をされたら、もう直に心臓を掴まれているようなものだ。
「恋人になって欲しいのだけれど」
「こっ、恋人!?」
彼女には非の打ちどころがない。知性溢れる顔立ち――実際に大学で講師を務めるほどの才女である――、完璧なスタイル――特に豊満で形の良い胸が素晴らしい――。唯一の欠点と言えるのは、彼女がすでに結婚をしていること、……そうだ、彼女は人妻だ。
「ダメだよっ! そりゃあロビンちゃんの恋人になれたら嬉しいけどっ! でも、ロビンちゃんに不倫させるわけにはっ……」
慌てて手を振り回すサンジに、ロビンは「あら、違うわ」とニコリと微笑んだ。
「私じゃなくて、夫よ。夫を誘惑して、恋人になってくれないかしら」
「――ええっ!?」
「そもそも、私には恋人がいるのよ。不倫ということかしら」
「ろ、ロビンちゃん?」
「何人か女の子にもお願いしてみたのだけれど、だめだったの。それでね、ピンときたのよ。あなたがいいんじゃないかって」
「ロビンちゃん……。ごめん、ちょっとよく理解できない……」
ロビンが『よく理解できない』ことを言ったのは初めてのことだ。彼女の説明はいつもとてもわかりやすく、すうっとサンジの頭に入ってきた。
母親の友人の姪という、関係があるのだかないのだか微妙な縁で、ロビンはサンジが高校生のときの家庭教師だった。
初めて会ったとき、サンジの胸は大きく波立った。女の子が大好きなサンジだが、頭のてっぺんから爪先までが痺れるような、何か運命的なものを感じたのはロビンだけだ。それまでサンジは幼稚園のときにリンゴ組で一緒だったコサギちゃんが初恋だと思っていたが、ロビンに出会ってこれこそが本物の初恋だと確信した。
女性の家庭教師だと余計に勉強に身が入らないのではと母親は心配したが、成績が落ちれば別の人に代えられてしまうかもと思ったサンジは、必死で頑張った。努力の甲斐あって成績はどんどん上がり、1年生の初めには最下位も見えていたのが、3年生の終わりには学年で3百人以上いる中の26位になって、ロビンと同じとはいかなかったが希望の大学に進学できた。
大学院を出たロビンは、そのまま同じ大学の助教となり、そしてその1年後、突然結婚した。サンジがそれを聞いたのは母親からで、しかも「2か月前に結婚されたんですって」とすでに完了形。ショックのあまり3日間寝込んだが、それほどにロビンはサンジにとって特別なひとなのだ。
理解も納得もできないとはいいながら、女性、しかも初恋のひとの頼みを断れるサンジではない。ロビンと会った1週間後、サンジはエプロン姿でオハラ総合病院にいた。
オハラ総合病院は近隣で一番大きい病院で、子どもの頃から近くに住んでいるものの、サンジにとってはなんとなく縁遠い場所だ。もともとサンジは病気らしい病気はしたことがなく、おたふく風邪のときには近所の小児科医院、怪我をしたときも小さい診療所へ連れていかれた。オハラのような病院は、もっとすごい病気やひどい怪我の人が行くところだという印象があった。
実際に中に入ってみると、なんとなく少しよそいきっぽい雰囲気の人が多い。デパートのインフォメーションのような制服姿の女性が入り口近くにいて、広々とした通路は天井が高く、ショッピングセンターに似ていると最初は思った。ぱっと見た感じではほとんどの人は元気そうで、患者なのか付き添いなのか見舞いの人なのかはわからない。だが、寝間着姿の人や点滴スタンドを持っている人も少なからずいて、ここは病院なのだと実感する。
やっぱりなんとなく場違いな気がして、サンジはちょっと圧倒された。
(こんな病院のお嬢さんだなんて、ロビンちゃんすごいなァ)
ロビンが院長の一人娘だということを、サンジは初めて知った。それから、ロビンの夫が小児外科の医師で、次期院長候補だということも。
誘惑や恋人という言葉は横に置いて、サンジはとりあえずロビンの夫に会ってみることにした。憧れのひとの結婚相手の顔を見てみたいと思った気持ちも、正直ある。病院ボランティアに応募したら、すぐに採用された。ボランティアは年配の人が多くて、体力のある若い男子大学生だというだけで大歓迎された。揃いのエプロンはピンクと水色があって、どちらにもアヒルの親子が描かれている。母親世代だと思われるお姉さま3人にきゃあきゃあと選ばれたエプロンはなぜかピンクで、被って後ろで紐を結ぶだけのそれを、3人がかりで着せられてしまった。なんだか楽しそうだったので、別にいいのだけれど。
初めての外来や入院患者に病院内を案内することがメインの活動のひとつらしく、最初に先輩ボランティアから受付のシステムや診療の流れの説明を受ける。その後はあちこち歩き回って施設の場所を覚えながら、時々呼ばれて中庭の散歩の付き添いをしたり、図書室の本を整理したり。エプロンと名札を付けていると、その合間にも何度も声を掛けられた。
「あー、こっちにもトイレあるのか」
トイレの場所はよく訊かれる。外来患者らしき男性にさっき訊かれて案内したより、こっちのほうが近かったとサンジは反省した。場所を覚えるのはなかなか大変そうだ。
足の怪我で入院している中学生の女の子が勉強を教えてほしいと言うのに、サンジは張り切って手を上げた。サンジは教師志望なのだ。塾講師のバイトもしているが、病院ボランティアで子どもに勉強を教える機会があるのは嬉しい。そう話すと、先輩たちはニコニコ送り出してくれた。
4人部屋の入り口近くのベッドで、少女は起き上がってカーディガンを羽織った。淡い色の髪をきれいにふたつに編んでいるのが女の子らしい。
「中間試験サボれるー! って喜んでたのに、試験までに退院しちゃうの」
「でもちゃんと勉強するなんてえらいよ、ティイちゃん」
几帳面に書かれたノートで、彼女がもともと真面目な性格なのがわかる。ティイはうふふと可愛らしく笑った。質問されたのは英語と数学で、サンジはちょっと詰まりながらも言葉を選んで説明する。
「サンジ君、学校の先生よりわかりやすいかも! いい点数取れたら、サンジ君のおかげね」
少し背伸びした口調も、正しく中学生女子らしい。可愛いなぁとサンジは目尻を下げた。
ふと、怪我で入院しているなら手術したのかな、とティイの後ろに目を遣る。ベッドの枕元にあるネームプレートには、ティイの名前と入院日、そして担当医の名前が書かれている。
「――ねぇ、ティイちゃん、」
それを訊こうとサンジが口を開いたとき、後ろで空気が揺れた。
「勉強してるのか。よく頑張ってるな」
背後からの声。緑だ、とサンジは思った。声に色が付いて聞こえるなんて初めてで、その色に鼓動が速まった。
椅子に座ったまま振り返ると意外なほど近くにいて、白いシャツの胸元が目に飛び込んでくる。適当な感じに羽織られた白衣の胸には、写真入りのネームプレート。サンジはその写真をあえて見ないようにして、目線を上げた。
声からイメージしたのと同じ、濃い緑色の髪。
「――マリモ」
その色を見て思わず零れた言葉に、言われた当人は柄悪くサンジを見下ろした。
「なんだてめェ」
「ハァ!? 随分と口の悪い医者だな」
反射的に立ち上がったサンジのシャツの背中をティイが引っ張る。
「どうしたの、サンジ君。声大きいよ」
「あ、あれ……。ごめんね、ティイちゃん」
一瞬、病院だということを忘れてしまった。相手は医者らしくない言葉遣いだったかもしれないが、それほど酷いことは言っていない。それなのに、瞬間的にものすごくカチンときた。それより、マリモって何だ。失礼なのは自分のほうではないか。サンジは大きく息を吐いて、ぺこっと頭を下げた。
「すみません。失礼なことを言いました」
医者は片眉を上げて、むうと唸った。
「もういい。変なヤツだな。おかしいのはその景気よく巻いてる眉毛だけにしとけよ」
「なんだと!?」
「ちょっと、サンジ君!」
「あ、あ、あ、ごめんなさい……」
患部を診るというので、サンジは追い出された。
病室を出た途端、心臓が思い出したようにドクドクと鼓動で存在を主張する。
ネームプレートには、ロロノア・ゾロと書いてあった。ロビンの夫だ。
「やっぱりおれ、変だったよなァ」
ハァ、と大きすぎる溜息が漏れる。ティイに止められなければ取っ組み合いの喧嘩を仕掛けていたのではないかと危惧するぐらい、急に火がつくように苛立った。自分でもよくわからないうちに、ただ感情が持っていかれた。
(大好きなロビンちゃんの……だからかな)
きっとそうだろう、とサンジは思う。けれど。
ロビンに出会った時に感じた、胸がぐっと波立つ感情。それよりもっと大きな波が、訪れた気がした。
***
大学の授業やバイトもあるので、サンジが病院ボランティアに入れるのは火曜日の終日と木曜日の午前中だけ。初日は木曜日で活動を終えたらすぐ大学へ向かったが、2回目の今日は長時間なのでいっそう気合が入る。
ボランティアは弁当を持ってくる人が多いようだが、サンジは病院内にある職員食堂へ向かった。母親に弁当を頼むのも悪いし、食堂には入院患者に出される食事と同じメニューもあるというので、何かの参考になるかなと思ったのだ。
食堂はカフェテリア方式で、サンジは患者と同じメニューを選び、ごはんだけ大盛りにした。
13時半という遅めの昼食なのに、座席はかなり埋まっている。その中に、サンジは緑色を見つけた。向かいの席が空いている。
一応の使命もあるしなぁ、とサンジは小さく溜息を吐いた。初対面の印象はかなり悪かっただろうが、思い切って声を掛ける。
「ここ、いいですか」
ゾロは少しだけ驚いた顔をして、「どうぞ」と箸を持っていない左手で示した。すっと出された手に、なんかお医者さんっぽいなとサンジは思う。
いただきますと言って箸を持ってから、「先日はすみませんでした」と早口で言って、吸い物の椀に口を付ける。かなり薄味に感じるが、もともとの味なのか、この男の前にいるからなのか、わからなかった。
「いや、こっちこそ」
口の中のものを飲み込んでから、ゾロは小さく頭を下げた。今度はサンジが驚く。
「あの後、ティイに言われた。おれもちょっとおかしかったって」
まァお前は相当ヘンだったらしいがな。そう言って、ゾロは首の後ろを擦った。
「あー、やっぱり変でしたよね……。自分でもよくわからないけど、何かすみません」
ゾロの前には親子丼と、小鉢が4つ。食堂の箸は細めでサンジには少し使いにくいが、ゾロは大きな一口分を乗せては、ぽいぽいと口へ運んでいく。食べるの上手ですねと言うと、なんだそりゃとゾロは笑った。ロビンより2才上だと聞いているが、穏やかに笑うと目尻に皺ができて、もう少し年上にも見える。
「お前、それ似合うな。ピンク」
「……ありがとう、でいいのかわかんねェ」
今日もピンクのエプロンを着せられてしまった。おまけに、「後で写メ撮らせてね」なんて言われてしまう始末だった。白衣の医者に似合うと言われても嬉しくはないが、バカにした風でもないので、サンジは苦し紛れに笑うしかない。
「家でもエプロンするのか? 料理とか得意そうだな」
「したことねェよ」
「そうなのか?」
ゾロがものすごく意外そうな顔をしたことが、逆にサンジにとって意外だ。料理のできる男は増えてはいるようだが、やはりしないほうが多数派だろう。
「センセイは、――そうだな、仕事はできるけどそれ以外はてんでダメ、って感じ」
言ってしまった後で怒るかなとサンジの頬は一瞬引きつったが、ゾロがハハッと笑っただけなのに安堵する。
「ハズレてもねェけどな。簡単なものなら作るぞ」
「えーっ!? マジか。医者で男前で料理もできるとか、怖いモンなしだな」
「まあな」
笑顔でさらっと流されて、サンジはまたホッと胸を撫で下ろした。ついぽろっと口から出てしまったが、この男、腹の立つことにいい男なのだ。しかもドヤ顔などではない爽やかないい笑顔。言われ慣れているのだろうと思うと、ますます腹立たしい。
ゾロはどんぶりを持ち上げて残りの親子丼を掻き込むと、ごちそうさまと手を合わせて立ち上がった。
「――なァ、前にどっかで会ったことあるか」
ゾロのその台詞に、サンジは息を呑む。なんだかサンジもそんな気がしていた。でも、まるで記憶にない。出会った時の衝撃を思えば、初めてでないならわずかにでも何か覚えていそうなものだが。
「なんだよセンセイ、古風なナンパだな」
とりあえずは、はぐらかしておくことにする。ゾロも「そうだな」とだけ言って、食器を乗せたトレイを持ち上げた。
「あのっ!」
ロビンの頼みを、完全に引き受けたわけではない。まだ、とりあえず会ってみると言っただけだ。だから別に、次に繋げる必要はなかったのかもしれないけれど。
「今度、料理教えてください。やっぱ今どき男もちょっとぐらいは料理できたほうがいいし。女の子にもモテそうだし、それに、えーと、」
これで終わりにしてはいけない気がした。
懸命に捲し立てるサンジを哀れに思ったのか滑稽に思ったのか、ゾロは「わかったよ」と唇の端を上げた。
***
今度の日曜日に家へ行くことになったとサンジが報告すると、ロビンは「まぁ」を目を輝かせた。
「積極的なのね」
言葉だけだと他人事のようだが、表情はかなり嬉しそうだ。
「いや、ごめんね、ロビンちゃん。おれ、恋人とかはやっぱり考えられないんだけど」
「そうね。ゆっくり育む愛も素敵ね」
――いや、そうじゃなくて。
言いかけた言葉をサンジはのみこむ。ロビンが本当にニコニコしていて、それがとても綺麗で、会話がかみ合っていないぐらい別にいいじゃないかと、うっかり思ってしまったからだ。このひとが心から喜んでくれるなら、ロビンの夫の恋人になってもいいかな、なんて。本当にうっかり、思ってしまった。うっかりすぎて、サンジはブンブンと首を横に振った。
ゾロには幸せになって欲しいのよ、とロビンは言う。愛する幸せを持つべきひとなの、と。
それならどうして貴女がと、『夫の恋人に』と頼まれたときにサンジは訊ねたが、「私ではダメなの」とロビンは困ったように笑うだけだった。
「ロビンちゃんは、どうしてあの男と結婚しようと思ったの?」
医者になって病院を継ぐ気がないのなら、院長になれる男と結婚しろと、ロビンは父親から命じられたそうだ。長い付き合いになる恋人はロケット開発の技術者で、ロビンは彼以外と結婚する気はなかったが、無理にさせられた見合いでゾロと出会った。ゾロは、ロビンに恋人がいることを知ったうえで、結婚に承諾した。
「このひとになら、甘えていいと思ってしまったの」
それは直感だというロビンの言葉に、サンジの胸はつきりと痛む。そんなのずるいよ、と思った。サンジが年下だからかもしれないが、ロビンは誰かに甘えるような女性には見えない。そんなにも深い信頼を、自分がロビンから寄せられることはないのだと思うと、悲しくなる。
ロビンはサンジの『何でもしてあげたい』心をくすぐる。憧れの大好きな素敵な女性、それだけの理由ではないが、うまく説明はできない。ロビンが幸せなら、一番近くにいるのは自分でなくてもいい。それでも必要とされることがあれば、すぐに駆けつけたい。いつもそう思っている。
病院ボランティア3日目を終えて、午後の講義の合間にボランティアのことを話すと、サンジは大学の友人から「楽しそうだな」と言われた。大変なこともあるし、病気や怪我をしている人だと思うと気も遣うが、ほんの少しでも誰かの役に立てるなら嬉しい。ちょっとでも相手の笑顔が見られると、胸のあたりが温かくなる。正直、無償で人のために何かをするなんて今まで考えたこともなかったから、ボランティアという言葉には興味すらなかった。そういうことが知れただけでもよかったと言うと、「お前は根が優しいから、向いてるかもな」なんて言われて、くすぐったくなった。
大学の講義と塾講師のバイト、教員採用試験の勉強とで、かなり忙しくなりそうなのを両親は心配したが、充実しているのはわかるらしく、やめろとは言わない。息子のやる気を引き出して成績を引き上げた家庭教師の信頼は厚く、ロビンの紹介ならというのもあるようだ。そのロビンが、まさか息子に「夫の恋人になって欲しい」と言っているとは、考えもしないだろう。サンジだって、もちろんそんなことは言えるわけがない。
***
白いシャツに濃グレーのスラックス、ノーネクタイで白衣というスタイルに見慣れていたので、駅で待っていたゾロがジーンズ姿なのは新鮮だった。Tシャツの胸に大きく『I AM A MAN』と書いてある。謎の主張だ。
駅から歩いていくと、大きな家が増えていく。こういうのが閑静な住宅街ってやつかな、とサンジは思った。ひときわ立派な白い塀が続いて、それに繋がる大きな門扉の脇の扉をゾロが開けて中に入っていく。なんとなく高層マンションをイメージしていたサンジは、イメージとのギャップと、その規模に驚いた。
「すげ、お屋敷……?」
大きな庭に、純和風の家。庭師でもいそうな雰囲気だと言うと、管理しきれないので年に2回は呼ぶらしい。
「さすが医者って感じですね」
「勤務医なんて、お前が考えてるほど高給取りじゃねェぞ。ここも賃貸だ」
「え、そうなの?」
賃貸という言葉がまるで似合わない家だ。だから、家主がロビンの父だと言われて納得する。身内の持ち物なら、賃貸でもちょっと言葉の響きが違ってくるような気がするし。
ゾロははっきりとは言わなかったが、父親は娘にこの家を譲りたかったのではないかと、話の端々からサンジは思った。くれるものはもらっておけばいいのにと基本的にはそう思うが、すんなり受け取るには、話が――比喩でなく――デカすぎる。
玄関で出迎えたロビンは、本を読むと言ってすぐに引っ込んでしまった。「隠さなければならない理由がないわ」という理由で、家庭教師をしていて知り合いであることはロビンからゾロに話してある。病院ボランティアはロビンの紹介でもあることだし、特に不自然でもないだろう。
そして、サンジから見て、ゾロとロビンも、夫婦として特に不自然ではなかった。ごく普通の夫婦に見えた。知らない人が見ると若い夫婦にしてはラブラブ度が足りないのかもしれないが、ロビンが大学生の頃から落ち着いた大人の女性であることをサンジは知っている。夫に熱い視線を送らなくても、「おかえりなさい」「ただいま」だけで、ああ夫婦っぽいなと思えた。だってサンジとは、「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」「お邪魔します」だったのだ。当然だけれど。
カレーかハンバーグか野菜炒めという、中学生男子が好きっぽいメニューをあげられて、子ども扱いされているのかと思ったら、却ってゾロは呆れたように嘆息した。
「最初はそういうのが作りやすいだろ。――ていうか、おれもそんなに色々作れるわけじゃねェんだ」
その中では一番高度そうかとハンバーグを選ぼうとして、口からは「カレー」と出ていた。ゾロはカレールーを2箱取り出して、裏返した。
「あ、そういうの見ながら作るんだ」
「なんだ? バカにしてんのか」
こつんと拳が頭に落ちてくる。反射的に「イテッ」と口から出てくるが、ちっとも痛くない、ポーズだけの拳骨だ。
「まァ先に米だな」
ボウルに入れられた米を渡されて、サンジはそれをなんとなくでざぶざぶ洗う。ゾロがうんうん頷いているのに気をよくしてどんどん洗おうとしたら、途中で止められた。炊飯器の釜に移して、水を張る。
「洗剤入れなかったから、合格だな」
「それぐらい知ってるよ! 調理実習で見てたし!」
「偉そうに言うな。やってはねェんだろ」
そう、見ていただけ。家庭科の調理実習は女の子たちが活躍していて、サンジたち男子は言われるがままに皿を出したり、洗い物をしたり、運んだりしただけだ。何回かあった調理実習で、切ったり炒めたりしたような記憶はない。やりたいと言って調理していた男子もいるにはいたが、女の子たちが楽しそうにしていたので、サンジは手を上げなかった。
だから、次にニンジンとまな板と包丁を渡されると、背筋が伸びた。大きい刃物だ。緊張する。サンジはニンジンをまな板の上に置いて、わからないなりにそれとなくいいような角度にして、左手を添える。包丁を下ろそうとすると、ゾロがストップをかけた。
「そんな端を持ってたら、指落とすぞ。怖ェ」
ガッと掴むようなジェスチャーに、サンジは左手を少し動かす。刃の近くに置くのを本能的に避けてしまうようで、なかなか右へ行かない。
「もっと?」
「おれもなんとなくでやってるからなァ」
空中でニンジンを切るような手つきをしてから、ゾロはうーんと首を捻った。
「こんなもんか」
「え、なに、」
ふいに後ろから両手を回してそれぞれサンジの手に重ね、左手を持ち上げて位置を調整しはじめるゾロに、サンジは一瞬かたまってしまう。
「ちょ、びっくりするだろ!」
「そうか? すまん」
謝るのは口ばかりで、ゾロはついでにとばかりに重ねた右手も動かして、ニンジンに直接包丁は当てず、「こんな感じな」と切り方を示す。
背丈はほとんど変わらないから、サンジの肩越しにニンジンを覗き込むゾロの顔が、ものすごく近い。離れる瞬間、ふっと吐息が耳にかかって、サンジはびくりと肩を揺らした。
「まずヘタんとこ切って……、どうした? 耳赤いぞ?」
「……いいえなんでもありません」
ひとりで妙に意識しているみたいなのが悔しくて、サンジは思い切りよくニンジンを掴み、くるくる回しながら切った。ゾロはのんきに「お、うまいうまい」などと言っている。
ルーの箱に書いてある手順で作ったら物足りなかったので、具材はいつもその倍ぐらい入れるとゾロは言った。カレールーを2種類入れるのは、看護師が話をしているのをたまたま聞いたらしい。水だけは分量どおりにきっちり量るという謎のこだわりを除けば、ゾロの料理はかなりざっくりだった。ジャガイモの皮をむき始めたところで、ニンジンの皮をむき忘れたことに気づいたぐらいの大雑把さだ。それでも、ルーを入れてかき混ぜているといい匂いがしてきて、カレーを選んで良かったとサンジは思った。他にはちぎったレタスと千切りキャベツとミニトマトのサラダだけという簡単な献立だが、ほとんどの作業をサンジひとりで行ったのだ。かなり満足度が高い。
タイミングよくやってきたロビンが「おいしそうね」と言うのに気をよくしながら、食卓を調える。純和風の外観から畳の部屋ばかりなのかと思っていたが、ダイニングは洋間で、正座の苦手なサンジは安心した。いただきますと手を合わせて、どきどきしながらカレーライスを口へ運ぶ。
「んん、うまい! どうかな、ロビンちゃん」
「おいしいわよ」
「よしっ!」
小さくガッツポーズをして、サラダに手を伸ばす。市販のドレッシングをかけてあるから、こちらも問題ない。かと思いきや、
「いや、これはどうだ?」
ゾロがフォークで、千切りが6、7つぐらい繋がったキャベツを持ち上げた。時間はかかったが丁寧に切ったつもりなのに、悔しい。
「あら、あなたが作っても、そんなのよくあるじゃない」
「まあな」
夫婦が笑い合うのに、サンジは急に居心地の悪さを感じた。そういえば、親戚でもない知人の夫婦の家にお邪魔するなんて、初めての経験だ。なんだか邪魔をしに来てしまったようで、サンジはお尻のあたりがむずむずするような気がした。
「あの、料理はいつもセンセイが作るの?」
訊ねると、二人は一瞬、目を見合わせた。何か変なことを言っただろうかと心配すると、「あなたのことでしょ」とロビンがゾロに言うので、そうか二人とも『先生』だと思い当たる。
「どっちかってェと、一緒に食わないことが多いな」
「そうね。私は外食も多いし、ゾロは病院に泊まり込むことも多いもの」
「いるときは、気が向いた方が作るって感じか。ロビンが作るほうが多いんじゃねェかな」
「ええ」
「まァ、ロビンは外泊も多いしな」
途中までのんびり聞いていたサンジは、そのせりふにドキッとする。この人は妻に恋人がいると知っているのだ。それはいったい、どんな気分なのだろう。
カレーのニンジンやジャガイモは大きいものが少し硬くて、大きさを揃えたほうがいいとロビンからアドバイスを受ける。
「次はメモを持ってこなきゃな」
初めて学ぶことだから、頭の中のメモだけでは心もとない。
「……次もあんのか」
「あ、その、……あると思ってた……。ダメですか」
サンジの中では、次こそハンバーグだと勝手に決めてしまっていた。不安げに訊くと、ゾロは溜息を吐いた。
「しょうがねェな。乗りかかった船ってことか」
ロビンが黙ってニコニコと見ている。ああ違うんだロビンちゃん料理できたほうがいいと思うし実際やってみて楽しかったし――なんて、言い訳みたいで言えない。それなら私が教えましょうかとロビンにもし言われたら、きっと返事に詰まる。最初にカレーを作りたいと口にした時点で、もう次のことを考えていたのだ。まるで、初めてのデートみたいに。
駅まで送るというゾロの申し出に、サンジは甘えることにした。住宅地は目印がなくて、わかりにくい。
街灯はあるし、家々の明かりもついているのに、人通りがあまりなく静かなので、乾いた暗さがある。ふいにどこかの家から煮物の匂いが漂ってきて、その温かさにサンジはホッとした。なんだか世界から取り残されたような、一緒に歩いているゾロと二人だけしか呼吸をしていないような、寂しく不安な心持ちだったのだ。
駅に近づくにつれて歩行者の姿が見え、車の走る音も聞こえてくる。元の世界に戻ってこられたような、不思議な感覚がした。
「なァ。センセイは、どうしてロビンちゃんと結婚しようと思ったの?」
ロビンにも訊いた質問を、ゾロにも問う。ゾロは即答した。
「あいつがそうしたいって言ったから」
「それだけ?」
「ああ。それで充分だ」
自動販売機の明かりに照らされたゾロの横顔がやさしくやわらかくて、サンジの胸は締め付けられた。つらくないのか、とは訊けなかった。
***
トトトトトン、という軽やかな包丁の音に、サンジは心の中で自画自賛する。
「すげェな」
ゾロも思わずといった様子で感嘆の言葉を漏らした。
ハンバーグ、豚肉のしょうが焼き、鶏の照り焼き、今日はトンカツ。作ってきたメニューのすべてにキャベツの千切りがついていた。お蔭で、千切りには少し慣れてきたように思う。
「そういえば肉ばっかりだったな。次は魚にするか」
サンマの塩焼き食いてェという呟きに、サンジも同意する。秋の魚といえばサンマを思い浮かべる。きっと旬の食べ物だ。風も冷たくなってきたので、ちょうどいいような気がする。
「なら、和食?」
「あー、いや、そういう括りか……。そうか、そうだな」
「もしかして、サンマの塩焼きにもキャベツの千切りなのか?」
「……別におかしくはねェだろ」
「少なくとも、家では出ないな」
サンジの母親は料理上手で、たぶんこだわりがある。ロビンが家庭教師に来ていた頃、夕飯を出すことがあった。そのときロビンが母親に、『丁寧に作ってらっしゃるんですね』とか、そんなことを言っていた気がする。きっと献立も、バランスなんかをきちんと考えているのだろう。ゾロの料理は米と肉と野菜があって、それなりにちゃんとしている感じがするが、本人が言うとおり、レパートリーがたくさんあるわけではないようだ。料理が趣味というわけでもなさそうだし、それは仕方がない。
家でサンマの時、ほかに何が出ていたか思い出そうとしたが、まったく無理だった。おいしいと思って食べているし、それを伝えてもいるが、食事の内容が記憶に残っていないなんて。そのことに気づいてすらいなかったことを、サンジは初めて母親に申し訳なく思った。
「あ、おばんざいとか、そういうのは?」
「おばんざいってどういうのだ」
「……えーと、た、タケノコ? とか?」
「タケノコは春じゃねェか?」
がんばってひねり出したものも即座に却下される。思い付きなんてそんなものだ。カレーライスだった初回以外は味噌汁を作ったから、きっと味噌汁と、そしてキャベツの千切りサラダになるだろうと、サンジは思った。
――それが、2週間前。
トンカツは少しべちょっと揚がって油っぽくなったが、食べられなくはなかった。もちろんキャベツの千切りがよく合った。
作るものはゾロが決めて、当日に聞くので、メニューが事前に予想できているのは初めてだ。だが、脂の乗った香ばしいサンマの味をサンジが思い描いているところに、ロビンから電話がかかってきた。ゾロが急に病院から呼び出されてしまい、いつ戻ることができるかわからないのだと言う。そういう可能性があることは事前に聞いているし、実際に急なキャンセルはすでに一度、経験済みだ。
「わかった。じゃあ、今日は遠慮するね。ロビンちゃん、晩ごはんは?」
「デートよ」
電話の向こうで、ロビンは軽やかに笑った。見えないのに、すぐ傍で花が咲いたように感じる。ああやっぱりロビンちゃん素敵だなァとサンジは胸をときめかせた。
それにしても、休みの日に呼び出されるなんて、患者さんのことが心配だ。ゾロは小児科だから、それはきっと子供の患者さんで、余計に気になってしまう。サンジが心配したって仕方がないのだけれど。
「この頃ずっと、和食のことを調べていたのよ。残念ね」
「え、そうなんだ」
これにはサンジからも笑みがこぼれた。とすると、今日ははじめてキャベツの千切りがなかったのかもしれない。サンマは予想していたが、そっちは考えていなかった。
ふと、ゾロは家に帰るまで食事できないのだろうか、とサンジは思った。
「ロビンちゃん、すぐに出かけちゃう?」
「いいえ。彼がまだ仕事なの」
2時間ほど時間があると聞いて、「やっぱり今から行ってもいいかな」とサンジは訊いた。
家の手伝いは、普通程度にはするほうだと思う。ただ、サンジの母親は料理だけは手伝わせなかった。「料理は大好きだからダメ」と言う彼女は母親ながらとても可愛いので、サンジは時々わざと手伝うよと言ってみたりする。一度も首を縦に振ってもらえたことはない。
そんなわけで、家の台所が使えず、ロビンにキッチンを貸してもらうことにした。ゾロにおにぎりを持っていきたいと言うと、ロビンは喜び、サンジが到着するまでに米を炊いておいてくれた。
「あ、材料……。いつもゾロが用意しておいてくれるから、忘れてた。買ってこなきゃいけないよね」
「大丈夫よ。ゾロの好きな梅干しがあるわ」
ロビンはそう言って、大きな梅干しと昆布の佃煮を出した。おにぎりを作るのももちろん初めてなので、サンジはロビンに教えてもらいながら炊き立てのご飯を握る。
「もっとギュッと握ったほうがいいわよ。後で崩れてしまうから」
そうは言われてもご飯が熱くてなかなか力が入らない。苦労して三角の形を作っていく。
梅干しと昆布を二つずつ。それぞれラップに包んで、海苔は食べるときに巻けるよう、別にしておく。ロビンに用意してもらった袋にそれを詰めると、サンジは「何から何までありがとう」と礼を言った。
「来週はおれがダメだから、次は再来週以降かな。また病院でセンセイと会った時に決めるね」
「あら、予定があるの?」
「うん。11日がおれの誕生日だから、週末は両親に祝ってもらうんだ」
大学の友人たちは、もう誕生日を家族で祝うなんてことはしていないようだ。でも、毎年の恒例だし、両親にも念押しされているので、外せない。
「じゃあ、行ってくるね。ロビンちゃん、ありがとう!」
バタバタと荷物をまとめ、ぺこりと頭を下げて、飛び出す。
「――11月11日?」
ロビンがそう口にした時には、サンジはすでに扉を閉めてしまっていた。
休診日で面会時間も終わっている病院は、正面玄関の明かりが消えてひっそりしている。サンジは救急外来入り口から院内へ入った。時間外受付で名前を言うと、「お伺いしています」とすぐに通してもらえた。ロビンが連絡をしておいてくれたのだろう。思い付きで来てしまって、そんなところに頭が回っていなかったことに気づく。
外来はひっそりして、独特の落ち着かない感じがしたが、病棟はまだ明るい。小児病棟の近くを歩いていた顔見知りの看護師が、サンジに気づいて声をかけてきた。ちょっぴりふくよかで、頼りがいのありそうなイメージのひとだ。サンジがボランティアをしているときにも、明るく話しかけてくれる。
「サンジ君! ゾロ先生、仮眠中なの。奥様から差し入れよね」
「あ、うん。これ、渡しておいてもらえますか?」
「師長の許可をもらってるから、こっそり医局に案内するよ」
こちらにもロビンは手回しをしてくれているようだ。『奥様からの』というのはロビンがそう言ったのか、勘違いでそうなっているのかはわからないけれど、そのほうが話が早いだろうから、訂正はしないでおく。
看護師は、病院ボランティアのときにも普段は入れない通路に入っていった。サンジはおにぎりの入った袋を抱えて、それについていく。医局には、ほかに誰もいないようだ。
「ゾロ先生は、たぶん奥の部屋だと思う。ここが先生の席。メモとか入れる?」
「そうだね」
「じゃあ、これ使っていいよ」
看護師はポケットからかわいらしいメモを出して、2枚をサンジに渡した。淡い青地にやわらかな黄色の動物っぽいキャラクターが描かれているのは、入院中の子供たちに渡すためかもしれない。かわいすぎるなァと思ったけれど、ありがたく礼を言って受け取る。
「帰るとき、ナースステーションに声をかけてね」
「えっ」
「ごめんね、仕事に戻らなきゃ。場所は大丈夫だよね?」
サンジが頷くと、彼女はぱちりとウィンクをして、行ってしまった。いいのかなと思いながら、サンジはゾロのだと教えられた机からペンを借りる。ちょっと悩んで、『時間があれば食べてください』と書いた。2枚ももらってしまったけれど、そんなに書くことがあるわけじゃない。机の上におにぎりの袋を置いて、その下にメモを二つ折りにして挟んだ。
それで用事は済んだ、けれど。やっぱりちょっと気になってしまって、サンジは奥の部屋の扉をそっと開けた。
ソファの上で、窮屈そうにゾロが眠っている。サンジは音を立てないように気をつけて近づいた。仰向けのゾロはぱかりと口を開いて、なんだか子供みたいだ。呑気な寝顔を見ていると、サンジはなんだか叩き起こしたい気持ちがむくむくと湧いてきた。いや、蹴り起こしたいというか。無防備なところを、思い切り。
いやいや何を考えてるんだと、サンジは我に返って首を横に振った。暗い部屋の奥に、背もたれのないソファがあるのが見える。ゾロの寝ているソファよりゆったりとしていて、あっちで寝ればいいのにとサンジは思った。その横に、毛布が何枚か積んである。
「1枚、借りまーす」
言っても仕方がないとは思うが、サンジは小声で毛布に向かってそう言って、ゾロにそっと掛けた。ゾロはなぜか、毛布に包まれてから、くしゃみをした。サンジはびくっとしたものの、ゾロが起きる気配はない。
くしゃみの弾みなのか、口が閉じている。鼻の穴の前に右手の人差し指を出してみると、鼻から漏れる息がかかった。サンジはちょっと笑ってしまいそうになる。その指で、鼻の先に触れる。ほのかに湿っている。今度は頬にそっと触れてみる。硬くて、でもなめらかだ。
サンジの目は、薄いくちびるを捉えた。きれいな一文字に閉じられている。下くちびるに触れるか触れないかのところを、左から右へなぞった。
触れた指を、左手で庇うようにして、そのまま胸に当てる。鼓動が煩くて、熱い。
医局には結局誰も戻って来ず、ナースステーションへ行くまで、サンジは誰にも会わなかった。
***
11月11日には、ロビンから電話がかかってきた。誕生日おめでとうと告げる声に、サンジは耳に美しい蝶がとまったように感じて、ありがとうと応じる声が嬉しさに震える。
だが、ちょっと待ってねという言葉の後に雑音が入り、男の声が聞こえてくると、今度は別の意味でドキッとして手が震えた。
「今日が誕生日なのか? おめでとう」
「……うん。ありがと、センセイ」
病院に差し入れを持って行った後、まだゾロには会っていない。サンジはなんとなく気まずくて、なかなか言葉が続かなかった。
「それと、おにぎり美味かった」
「ほんと? 良かった」
ロビンちゃんの教え方が良かったんだとか、好きな梅干しを入れたからとか、いろいろ言おうとして口を開いては、止めてしまう。
あの日感じた胸の痛みは、まるで恋みたいだった。――みたい、というか、きっとそうなのだと思った。ロビンのせいで最初から意識していたこともあるかもしれないが、それよりももっと本能的なところで、サンジはゾロに惹かれている。
電話の向こうとこちらで、無言で向かい合っていることにすら胸が高鳴った。ゾロが電話を切るまで、口から飛び出しそうな心臓を舌で押さえこむような気持ちで、ゾロの呼吸の音を聞いていた。
とても幸せな誕生日だと、思った。
ふわふわと浮き立つような気持ちが一変したのは、その週末のことだ。
母親がいつも以上に力を入れた夕食と、父親の買ってきた有名店のケーキを3人で食べて、ささやかながら温かな誕生日祝いをした後。「21歳、おめでとう」と改めて言った父親と、その隣に座る母親の、真剣な目。ふたりにまっすぐ見つめられて、サンジは直前までの幸せな雰囲気を、思わず探してしまいそうになった。あまりにも一瞬にして、空気が変わってしまったから。
父親とは、笑ったときの表情やちょっとしたしぐさが似ていると言われた。母親とは、下がり気味の目と気配りのできる性格が。
彼らが本当の両親でないなんて、ただの一度も疑ったことはなかった。だが、そうなのだと言う父親の目は、『冗談だろ?』とも言わせてくれない。
「おれの、本当の親って……?」
「亡くなってる。でも、詳しいことはわからないんだ」
旅館の火災で、サンジだけが助け出されたのだという。宿泊者名簿にあった連絡先はなぜか住所も電話番号もでたらめで、警察は身元を突き止めることができなかった。
今の両親は当時、火災のあった現場の近くに住んでいて、ずっとサンジのことを気にかけていた。まだやっと伝い歩きをしているような子供だったのだ。サンジが施設に預けられることを知って、ふたりはすぐに引き取りたいと申し出た。いったんは施設に入ったものの、ひと月も経たないうちに、サンジは今の両親の息子になった。
血が繋がっていなくても本当の家族だと、父親も母親も言った。サンジもそう思いたい。それでも、一度も疑ったことのなかった事実に、サンジは動揺した。
両親は、サンジの質問に、すべて丁寧に答えを返した。
本当は20歳の誕生日に伝えようと思っていたのに、どうしても言い出せなかったのだという彼らは、この1年、いやサンジを引き取ってからずっと、悩んでいたのだろう。
「話してくれて、ありがとう」
硬い表情の両親に、サンジは笑顔を見せた。感謝も愛情も全部伝わるようにと、祈りながら。
***
頭が混乱していて、正直、いろいろなことを全部放り出したい。旅に出るとかいいかも、などとぼんやり思いつつ、サンジは殊更に普段どおりに過ごした。大学に行き、バイトに精を出し、病院ボランティアも休まず、誘われればコンパにも参加したし、家ではたまに手伝いをしたり、しなかったり。
ただ、ゾロに料理を教えてもらうのだけは、結局11月は一度もないまま、師走になりそうだ。病院でゾロに会わなかったので日程を決められなかった、というのがその理由だが、会わなかったのは故意だ。病院ボランティアの日は、小児科の外来や病棟にさりげなく行かなくて済むように、別の科からの用事を積極的に受けた。昼は職員食堂へは行かず、ボランティアの控室として使わせてもらっている会議室で、買ってきた弁当やパンを食べた。会いたくないわけではない。むしろ顔を見たら気持ちが落ち着くかもしれないとも思う。だが、ゾロと会ってしまうと『普段どおり』ではなくなってしまう気がした。
「サンジ君、ゾロ先生がいらしたわよー」
だから、それは不意打ちだった。
オハラ総合病院にサンジがやってきたのは院長の娘の紹介であることは、もともと数人だけが知っていた。その後、ゾロにおにぎりを差し入れたことを小児科病棟の看護師がボランティアの女性に話し、気が付いたらボランティア仲間の全員に伝わっていた。だから、ゾロがサンジを訪ねてきても誰も不思議に思わない。――サンジを除いては。
いつもサンジにエプロンを着せてくれるお姉さまの一人が、控室の入り口でゾロを招き入れようとしている。ゾロはそれを断っているようで、中に入ってはこない。逃げも隠れもできない状況に、サンジは諦めて控室を出た。
「何か用?」
素っ気なく言おうとして、語尾が頼りなく掠れる。
「ロビンが、次の予定を早く決めろって。……お前、どうかしたか?」
「別に」
案の定すぎて、まいってしまった。顔が見られなくて、サンジの目線はゾロの白衣の襟の縫い目を点々と辿るだけだが、自分で避けていたくせに、やっと会えたなんて思ってしまう。そわそわするのと妙に落ち着くのとが、奇妙に同居しているみたいだ。
「おれァ、子供が泣きそうなのは苦手なんだ」
「――小児科のお医者さんのくせに。それに、子供じゃない」
そう言ったものの、自分は今きっと子供みたいな顔をしてるんだろうなとサンジは思った。
ゾロはボランティアの控室に「用事頼みたいので、借りていきます」と声を掛けている。中から「どうぞどうぞー」と明るい返事が聞こえた。
6階にあるその部屋には、机はあるのに、椅子がなかった。近くの部屋を使っている誰かが持って行ったんだろうとゾロは言った。
「まー、いいよ。何か、向かい合って座るのもアレだし」
窓を開けると、真下は病院の駐車場だった。それを縁取るような植え込みと、ところどころに高い木がある。木の葉はもうだいぶ落ちてしまっていた。サンジは窓枠に両肘をついて、見るともなしに駐車場を眺めた。ゾロは隣の窓際に立っている。窓は開けていないが視線を感じないから、おそらく部屋の内側を向いているのだろう。
「なんかさ、ドラマとか漫画みたいなんだけど。おれ、うちの子じゃないって言われた」
「ん?」
「両親の、本当の子供じゃないんだって」
努めて明るく話そうとするのに、自分の耳には甘えた声に聞こえる。
「1歳になるかならないかぐらいのときに、引き取ってくれたんだって。本当の、親は、火事、で……」
涙が大きな粒で落ちていったかと思うと、すぐに鼻も詰まってくる。ゾロが動いたのがわかったけれど、サンジは窓枠に腕がくっついてしまったかのように、動けなかった。温かい手がサンジの背中を撫でる。
「ほんとの、誕生日、も、わかんなく、て……」
「うん」
「おれ、親の……前で、泣いてな、……っいて、ない」
「えらいな」
ゾロはよしよしとサンジの頭を撫でて、それからまた背中に手を戻した。涙はぼとぼとと落ちて止まりそうにないのに、その温かさと大きさにサンジの気持ちは落ち着いていく。しゃくりあげて止まらなくなって、サンジはしばらく喋れなくなった。切れ切れに「センセイ、しごと」と訊ねると、「今日はもう終わった」とゾロは答えた。
外に出ると、窓からの空気よりもいっそう秋の終わりを感じる。タクシーの後部座席を窮屈で息苦しく感じて、サンジはそこでも窓の外ばかり見ていた。
仕事が終わったというのは本当だったようだ。ゾロはサンジを連れて家に帰ると、顔を洗ってこいと言った。鏡を見ると、目が真っ赤だ。サンジはふと、さっきのゾロを思い出す。
サンジが落ち着いてきた頃を見計らって、ゾロはボランティアの控室に荷物を取りに行ってくれた。戻ってきたときのゾロが、なぜか真っ赤な仏頂面だったのだ。何があったんだとサンジは面食らってしまったが、理由を訊いてもゾロは答えなかった。まさか、ボランティアのお姉さま方に『サンジ君の荷物を出してあげるから一緒に撮って』と言われて、ゾロがピンクのエプロンをつけた写真を撮らされているとは、その時は想像もしなかった。
いくら洗っても目の赤さと腫れぼったさは変わらない。サンジは諦めて、濡れた顔をタオルで拭う。ロビンの好みそうな花の香りがした。
ダイニングのテーブルには、ホットミルクとコーヒーが置かれていて、キッチンからゾロが「好きな方を飲めよ」と言う。明らかにこっちを自分に用意してくれたのだろうと思ったから、サンジはホットミルクのマグが置かれたほうの席に座った。優しい香りに誘われて口を付けると、ほのかに甘くてホッとする。
「それ、蜂蜜が入ってんだ」
「ああ、甘くて美味い。これも看護師さん情報?」
「まァな」
キッチンから出てきたゾロは、またサンジの背中に触れた。撫でるのではなく背中の下のほうに手のひらを置かれて、サンジはドキッとする。ゾロはそこをゆっくりとまるく擦って、手を離した。向かいの椅子に座ってから、「そこ、傷があるだろ」と言う。
「え? ……あるけど」
「その傷、火事のときに付いたんだ」
「なんで知ってんの、そんなこと」
子供の頃、ゾロは火事のあった旅館の近くに住んでいた。早朝だったが周囲が騒々しくなったので目を覚まし、小学校3年生だったゾロは父親と一緒に消火の手伝いに行った。消防車はまだ来ていなかった。声が聞こえたのでゾロがひとりで旅館の裏手に回ると、上の階の窓から大人の男女が叫んでいる。
「お願い、助けて。受け取って」
ぐるぐる巻きにした布団を、男が今にも窓から投げ落としそうにしている。
「息子を助けて」
苦しそうに咳込みながら、女が声を振り絞る。
大人を呼びにいく時間はなさそうだった。ゾロは成長が遅くて、その頃は学校で女子にチビとからかわれたりしていた。だが、その時なぜか、自分の身長が180センチぐらいあって、力も強くて、いつも鍛えている、そんな気になった。
「大丈夫だ、こっちに投げろ」
男が投げた布団の塊は、しっかりゾロのところまで届いた。だが実際のゾロはやっぱり小さかったので、布団を受け止めたものの、倒されてしまった。すぐに体を起こしたが、もう窓からふたりの姿は見えなくなっていた。
「背中の傷は、布団で巻かれる直前についたみてェだって、医者が言ってた」
落下の衝撃を吸収するためだろう、布団はしっかりと巻かれていた。発見が遅れれば窒息していたかもしれないが、サンジの両親は限られた時間で最大限のことをしたのだろう、と大人たちが当時言っていた。
「グルグルマユゲ」
「ハァ!? マリモみたいな頭して、なんだよ!」
反射的にサンジが言い返すと、ゾロはプッとふき出した。
「最初に病院で会ったときも、そんなこと言ってたよな。おれも、そんな特徴的なマユゲ、よく忘れてたもんだ」
赤ん坊だったサンジは当然ながらまったく覚えていないが、ゾロの記憶には残ってはいたのだ。
「いつ思い出したの?」
「お前のおにぎり食べてるとき」
「それ、最近じゃねェか」
8歳ぐらいのときの記憶が残っているかと言えばサンジもかなり怪しいが、それにしてもゾロは鈍いような気がする。
助けられた後、怪我をしていたサンジは入院していた。ゾロはそこに何回かお見舞いに行った。サンジが今の両親に引き取られてからも、何度か会いに行った。
「家に行ったとき、おばさんがおにぎり作ってくれて。食ってたら、お前が欲しがって泣いたんだ。それを思い出した」
離乳食がどれぐらい進んでいたのかわからず、サンジの母親はその固さをいろいろ試している途中で、おにぎりはまだちょっと早いかもしれないと、サンジには与えられなかった。
「お前のおにぎり、おばさんのと同じ味だ」
「おにぎりなんてだいたい似たようなモンだろ……。それに、ロビンちゃんに教えてもらったんだし」
「でも、同じだった」
サンジの味の基本は、今の母親の料理にある。もちろん同じようには作れないけれど、一番美味しいと思うのは、やっぱり母親の手料理だ。おにぎりとはいえ、それと同じ味だと言われて、サンジの胸はじんわりと温かくなった。
***
サンジが次に病院ボランティアに行くと、「もう大丈夫?」と何人もに声を掛けられた。手伝ってもらっていたら体調が悪くなったみたいだから帰らせる、とゾロが説明していたからだ。エプロンを持って帰ってしまったので洗濯してきたと言うと、お姉さま方の間でなぜか取り合いになった。その日はピンクに余分がなかったので、サンジは水色のエプロンを着せられた。洗濯したのは母親なのだけれど、なんとなく言い出せる雰囲気ではない。
この頃は場所もほとんど覚えて、初診の外来患者の案内もしている。診察室への呼び出しのシステムだとか、血液検査や会計の場所だとか、再診の受付の方法だとか。馴染みの小さな診療所だと、名前で呼ばれてその場で医師や看護師に指示されるので迷うこともないが、オハラのような大きな病院だと一度説明されたぐらいでは覚えられないかもしれない。サンジはできるだけわかりやすく覚えやすいようにと心がけた。そういうのも、教師になったときに役立ちそうな気がする。
その日、サンジが案内した中のひとりに、産科を受診する女性がいた。特に問題のない妊婦というのがどういうものかサンジにはわからないが、オハラ総合病院にはそういった妊婦の受診は少ないのだそうだ。どんな病気や怪我なのかをサンジが詳しく訊くことはないが、その女性は自分から「ちょっと年取ってるからね。それに、双子なのよ」とあっけらかんと言った。それで、最初に行った産院から、オハラの紹介状をもらってきたという。何才からが妊婦として高齢なのかサンジは知らないが、サンジより母親のほうが年齢が近いかもしれない。だが、『きれいなお姉さん』という雰囲気の彼女は、すらりとしたスタイルで、まだお腹はまったく膨らんでいないように見えた。
そのお腹のあたりをちらっと見たとき、ふいに、サンジの頭に海が浮かんだ。360度すべてが水平線という海の真ん中に、ぽつんと浮かぶ船。太陽が容赦なく照り付けて、海面からの反射も含め、痛いほど眩しい。見上げる角度の場所で、手すりに体を預けて気持ちよさそうにオレンジ色の髪をなびかせて笑う少女。潮風とミカンの香り。
「……サンジ君?」
「え、あ、はいっ! ナミさんっ!」
慌てて返事をするサンジの顔を、女性がきょとんと見ている。
「やーだ。彼女のことでも考えてたの?」
「違、あれ……? なんだろ、ボーっとしてごめんなさい」
海ではなく、ここは病院。明るい茶色の髪の女性は、年上の妊婦さん。我に返って、サンジは目を瞬かせた。
急に海が頭に浮かんできて、とサンジは説明した。海水浴には行ったことがあるが、船に乗って海の真ん中になんて経験はない。単に理想の女の子が頭に浮かんだのだろうけれど、サンジの好きなタイプど真ん中といった、とてもチャーミングな少女だった。妄想みたいな話なのに、女性はサンジの話を興味深そうに聞いてくれた。
「ナミさんって言ってたわよ」
「はい、波とか潮風とか、海の似合う女の子で……。出会ったら絶対、恋に落ちるなァ」
うっとりと両手を胸の前で組むサンジにアハハと笑って、彼女は「じゃあもし双子のどっちかが女の子だったら、ナミって名前にしようかな」なんて言った。
料理を教えてもらう約束でゾロの家に行ったら、急用で病院に出かけていた。そんなにかからないというので待っている間に、サンジは船と女の子のことを思い出して、ロビンにその話をした。最初はにこやかに聞いていたロビンだが、「オレンジの髪で、可愛くて、」とサンジが言い始めたあたりから、真剣な表情に変わった。自分の話もしていいかと言うので、サンジはもちろん大きく頷く。
「子供の頃から、つらいことがあると、助けてくれる人たちがいるの」
友達と喧嘩したとき。親に叱られたとき。風邪をひいて熱が出たとき。翌日に音楽のテストがあるとき(ロビンは歌が苦手だ)。進路に悩んだとき。仕事に行き詰ったとき。眠る前につらいと感じていたら、夢を見る。ロビンは大丈夫、おれたちがついてる、そう言って手を握ったり、頭を撫でてくれたりする。甘やかされて、いい気分で目が覚めたら、熱が下がっていたり、進むべき道が見えていたりする。
「夢に出てくるのとそっくりな人と、実際に出会ったのよ。恋人と、ゾロと、それからあなた」
「えっ」
「だからね、この人たちには甘えていいんだって思ってしまうの」
「――おれも?」
「ええ。甘えているでしょう」
「そうかなァ」
甘えられている実感はないけれど、もしロビンがそんな気持ちでいてくれるなら嬉しい。それに夢に出てきたなんて、なんだか運命的だ。
「それでね、オレンジ色の髪の女の子も夢に出てくるの。ぎゅっと抱きしめてくれて、太陽みたいで、大好き」
ロビンはそう言って、サンジの大好きな少女っぽい表情で笑う。
その女の子とも会えるといいね、なんて話していたら、ゾロが帰ってきた。サンジはすっかり忘れていたけれど、その日はサンマの塩焼きをメインにした和食で、キャベツの千切りはなかった。
***
お願いがあります、と言ったら、殊勝な態度だから聞いてやろうとゾロは言った。そんな言い方はするけれど、門前払いで話も聞かないようなことはきっとしないだろうと、サンジは思う。優しいとか、そういうのではなくて。あえて言うなら『器が大きい』とか、そんな感じだろうか。なんか悔しい。
「父さんと母さんに、おれの作った料理を食べてもらいたいんだ。それで、ゾロの家を借りたいんだけど」
「お、いいな。おれも、おじさんとおばさんに会いてェ」
そう言ってもらえると期待はしていたものの、二つ返事で了承してもらえたのに、サンジはホッとした。
おにぎりの味が母親のものに似ているとゾロに言われてから、考えていたことだ。血が繋がっていないと知って、ごくごく薄いけれど両親との間にできてしまった壁を、なんとかなくしてしまいたい。20年の間しっかりと親子をしてきたのだから、ほんのちょっとのきっかけで大丈夫なはずだと、サンジは信じている。
何を作るか悩んで、最初に作ったカレーはどうかと言うと、ゾロはあっさりとその思惑を見抜いた。
「なーに無難なセン選んでんだよ。一番失敗しなさそうだとか思ったんだろ」
「そんなんじゃっ……、ううっ、そうだよな……」
結局、おにぎりは外せないと、タラのから揚げと卵焼きを中心に一人分ずつをワンプレートに並べたら、お弁当のようなお子様ランチのような、可愛らしい一皿になった。
駅からロビンに連れられてきた両親を、ゾロとともに玄関で出迎える。ゾロの顔を見るなり母親は涙ぐみ、父親は握手を求めた。ゾロが右手を差し出すと、それを両手でがっちりと掴んで、父親は微笑んだ。
「ゾロ君、大きくなったわね」
「この年になってそんな風に言われると、なんだか気恥ずかしいです」
ふたりともとても嬉しそうで、なんだゾロに会わせるだけで良かったんだとサンジは思った。ロビンの夫がゾロなのだと伝えただけでも、その偶然に感激していたぐらいなのだから。
サンジの手料理を5人で囲む。美味しいと言ってみんなが笑顔になって、サンジは胸が熱くなった。両親もしきりと感心している。
「から揚げ、おいしいわ。どうして鶏じゃなくてお魚なの?」
「お口に合って嬉しいよ、ロビンちゃん。うちは、から揚げは魚のほうが多いんだ」
パスタはトマト味の、特に辛口。ホワイトシチューには必ずキノコ。味噌汁にはかなりの率で玉ねぎが入っていて、マヨネーズ味のポテトサラダよりマッシュポテトが多い。父親やサンジが好きなものは、その割合が多くなる。白身魚のから揚げが好きなのは父親で、それも含めてサンジの家の味だ。
「でも、このから揚げ、母さんの味とは全然違うんだよ」
「うん。これもすごく美味いけど、母さんのとは違うな」
父親が優しく笑って頷く。言いたいこと、ちゃんとわかってくれてるんだと、サンジはそれを力強く感じた。これが言いたくて、料理を食べてもらおうと思ったのだ。
「母さんの味を、作りたいんだ。母さん、料理、教えてください」
「……そうね」
嬉しそうに微笑んでから、意地悪で教えなかったんじゃないわよう、なんて頬を膨らませる母親の頭を、父親がよしよしと撫でる。サンジは慌てて「やめて、恥ずかしい!」と言った。ふたりとも50代なのに、何やってんだ。
ロビンがゾロに「サンジは、両方に似ているわね」と囁いている。ゾロはそれに頷いた。ロビンとゾロがどの点でそう思ったのかはわからないけれど、サンジは恥ずかしくて、でも嬉しくなった。
豆を挽くのが好きだからと、ロビンがコーヒーを淹れた。一緒に出された手土産のショートケーキを見て、母親が思い出したように言った。
「サンジの誕生日は、ゾロ君にもらったのよ」
実の両親が呼んでいるのを聞いていた人がいて、サンジは名前だけが判明していた。けれどそれ以外のことはわからなくて、誕生日も戸籍を作るときに決めたのだ。
「ゾロ君が、ないならあげるよ、って。サンジを助けてくれたゾロ君と一緒だったら、きっと強い子になるだろうって、ありがたくいただいたんだ」
父親がありがとうと言うのに、ゾロは恐縮する。サンジが驚く一方で、ロビンが「そういうことだったのね」と深く納得していた。
「ひとにあげたから自分の誕生日は祝う必要がないって、言われていたの。子供のころからそうしているからって。サンジのことだったのね」
サンジはさらに驚愕して、両親も驚いて、「それは大変だ」と父親がまだ手を付けていないケーキの皿をゾロのほうへ寄せた。母親とサンジもそれに倣う。合計4皿のケーキを前に、ゾロは「今日誕生日じゃないし、こんなに食べられないから」と苦笑して、礼を言って3人に返した。
***
12月の終わりに、サンジはゾロの実家に連れてきてもらった。実の両親が、ゾロの実家の近くに埋葬されていると聞いたからだ。サンジも今の両親に引き取られてすぐはそのあたりに住んでいたのだが、サンジの父親は若い頃は転勤が多く、半年も経たないうちに引っ越してしまっていた。埋葬されたのは、おそらくそれより後のようだ。
旅館に泊まっていたということはサンジの家族は旅行に来ていたのだろうが、それほど華やかな観光地ではない。温泉はあるが、今は旅館とビジネスホテルが1軒ずつだけで、すれ違うのも地元の人ばかりのようだった。
医者のゾロも師走の例に漏れず忙しい時季だが、2日の休みが取れた。久しぶりに帰ってきた息子はもちろんのこと、ゾロの母親はサンジを覚えていて、喜んで迎えてくれた。
ゾロは、母親には似ていない。背は小さいけれど、弾けるように明るいそのひとは、ゾロが生まれるまで小学校の先生をしていたのだという。父親も高校の教師で、仕事関係で出会ったのかと思えばそうではなく、それぞれが一人旅をしていた途中で知り合ったらしい。父親は部活動の指導で、不在だった。
「何の部活?」
「剣道。うちの高校、けっこう強ェんだ」
「もしかして、センセイもやってた?」
「ああ」
ゾロはきれいな姿勢で立つ。竹刀を持つと、様になりそうだ。誇らしげな顔をしているのを見ると、強かったのかもしれない。もう少しつっこんで聞きたいが、それはまた後だ。少しだけ前を歩いていたゾロの母親が、足を止めた。
「奥から2番目の、白っぽい石のお墓ね。お参りが終わったら、住職さんに声をかけて」
お昼を作っておくからゆっくりしていらっしゃいと、一把の線香をサンジに渡して、ゾロの母親は先に帰った。
墓には、名前が刻まれてあった。きれいに掃除され、花も供えられている。
「……ここでいいのかな」
身元は不明だと聞いていたが。
ゾロが住職に確認しに行っている間、サンジは花の水を取り替えた。水はまだたっぷり入っていて、きれいだ。掃除も直前にされたようで、手を加える必要はなかった。戻ってきたゾロが「大丈夫だ」と言う。
「合ってた。後で詳しい話を聞けばいい」
「お花とかは、センセイのお母さんかな」
「ああ、そうかもな」
サンジが来ると聞いて、きれいにしておいてくれたのだろう。墓参りには慣れていなくて、何も考えずに手ぶらで来てしまったが、ぜんぶ用意されていた。次からは掃除道具にお花と線香とお供え、とサンジは頭の中にメモをする。
火を点けた線香の香りに、神妙な気持ちになる。目を閉じて手を合わせると、静かに吹く風だけを感じた。お参りするとふたりの気配とか感じるのかな、なんて思っていたが、そんなことはないようだ。ならば、それだけ安らかに眠っているのだろうと捉えることにする。伝えたいことはいろいろあったはずなのに、いざ墓石を前にすると言葉が出てこなくて、サンジは心の中で、ありがとう、とだけ言った。
案内された畳の部屋は、本堂の脇にあった。小さな寺で、本堂と住職の住まいが繋がっているようだ。ころんと丸い、以外の形容が浮かばない丸い住職は、そこでサンジに古びた封筒を渡した。
「そこにも書いていらっしゃるようですけれどもねぇ」
見た目のイメージそのままの、丸く穏やかな声で話す。
実の両親は、夜逃げをした。その後すぐにサンジが生まれて、慎ましく暮らしていたところ、福引で旅行券が当たった。そこで、あまり派手でない温泉旅館を選んで、この地に来た。
「それで、身元がわからなかったんだ……。夜逃げって、何か悪いことでもしたのかな」
「いいえ。ただ、あなたのことを思うなら、ほかの方法もあったのかもしれません」
サンジの両親は中学校の同級生で、もうひとりの男子と3人、ずっと仲が良かった。両親が恋人同士になっても変わらなかったのに、結婚した頃からおかしくなったらしい。
「お母さまはたいそうお美しい方で、お友達も好意をもっていらっしゃったようです」
母親が買い物などに出かけるときに後をつけたり、写真を撮ったり、無言電話をかけたり。両親が結婚後、彼はストーカーのようになってしまった。気味は悪かったが、しかしふたりとも彼を嫌いにはなれなかった。家に招いたりして3人で会うと、以前のまま、仲の良い友達でいられたのだ。
しかし、そうしているうちに、彼の行為がエスカレートしていった。最終的に、車のブレーキが効かないように細工されているに至って、夜逃げを決めたのだという。
「それで夜逃げか……。そりゃ、ちょっとやり方が悪かったかもしれねェな」
ゾロの言葉に、住職も頷く。
「逃げてしまったせいで、あなたの出生届が出せなかったんですからねぇ」
サンジの戸籍は新たに作っているが、どうやらもともとなかったらしい。
昼ごはんは、サンドイッチとナポリタンという喫茶店の軽食みたいなメニューだった。ゾロが子供のころ好きだったのだと言う。それを食べてから、家を出てからもそのままになっているゾロの部屋のコタツで、サンジは手紙を読んだ。
手紙を書いたのはブルックという行政書士で、サンジの両親の夜逃げを唯一知っていて、その後も手助けをしていたらしい。旅行先を聞いていなかったので連絡が遅くなったようだが、両親の遺骨が無縁仏として埋葬される直前に、ようやくこの場所をつきとめた。ふたりに財産はほとんど残っていなかったが、それは墓地の費用に充てたとのことだ。
手紙に書かれていたのは住職から聞いたこととほぼ同じだった。だが、ただひとつ、新しい情報があった。
「おれの誕生日、書いてある……。3月2日だって」
「わかって、よかったな」
「3月2日」
「春の始まりだ。段々あたたかくなってくる。――お前に合ってるな」
季節は冬真っ只中、窓は閉め切ってある。それなのに、ふわりと春風が吹いたような気がした。ゾロが近づいてきて、サンジはごく自然に目を閉じた。
軽く触れたくちびるが離れて、再びやわらかく食んでくる。体はふたりともコタツに入ったままで、くっついているのはくちびるだけなのに、やさしく包むように抱き締められているような、そんなキスだった。
夕方に家に帰ってきたゾロの父親も、サンジの顔を見るなり「よく来たなァ」とわしゃわしゃ頭を撫でて歓迎した。ゾロは完全に父親似だ。身体つきはがっしりしていて、ゾロより一回り大きく見える。深い皺があるせいか、目元はゾロよりやわらかい。
自分も教師になりたいのだとサンジが言うと、ゾロの父親も母親も手を叩いて喜んだ。
「大変だけど、いい仕事よー。がんばって! サンちゃんなら、きっといい先生になれるわ」
「息子は継いでくれなかったからな。いい子に育ったなァ」
「待て親父、泣くな。だいたい教師って世襲制じゃねェだろ」
「親は継いでほしいモンなんだよ。なァ、サンちゃん」
「そうよぉ。あ、サンちゃん、お墓参りしたいときはうちに泊まっていいから、いつでも言ってね」
いつの間にか、サンジはゾロの両親にサンちゃんと呼ばれている。ビールと日本酒が出てきて夕食から酒宴になだれ込んだ。ゾロの父親はあまり強くないようで、真っ赤になって瞼が落ちかけている。ゾロについては今まで缶ビール1本ぐらいしか飲むのを見たことがなかったが、今日はかなり飲んでいるのに顔色も表情も変わっていない。相当強いようだ。これは母親譲りのようで、彼女も日本酒を水のように飲みながら、けろっとしていた。
「なんか、ここにも、もうひとつ家があるみたい」
ゾロの父親ほどではないが、サンジもちょっと酔って、ふわふわと気持ちがいい。サンジの言葉にゾロの父親は「そうだぞ! 家だ!」と大声で言って、バタンと倒れるように寝てしまった。それを見て、残された3人は、けらけらと笑った。
客間に布団を敷こうかと言われたが、もうちょっと話したいと言うと、ゾロは自分の部屋に2組布団を並べた。なんとなくベッドの下に布団が並ぶのをイメージしていたのだが、よく考えれば――いや考える必要もなく、ゾロの部屋にはベッドがないのだった。学生時代に使っていたのだろう机や本棚があるせいで、敷き布団が少し重なっている。それがちょっと恥ずかしくて、サンジは失敗したかなと思ったが、今さら仕方がない。
潜り込んだ布団はふかふかしていた。これもきっと、ゾロの母親が昼間に干しておいたのだろう。
ゾロが明かりを消すと、さっきまで賑やかだった分、一気に真っ暗になったように感じる。
「いいお父さんとお母さんだね」
「煩いだけだ」
確かに、ゾロの家族としてはイメージが違った。だが両親と一緒にいるゾロはいつもよりよく笑い、よく喋っていて、それはそれで素の姿なのだろう。
一日で、サンジはゾロの両親がすっかり好きになってしまった。あのふたりから、大切な息子の誕生日を奪ってしまったんだと思うと、胸が痛い。
「あのさ、忙しいのに料理教えてくれてありがとう。もう終わりにする。これからは家で作れそうだし、母さんにも教えてもらう」
「そうか」
「誕生日も、ありがとう。毎年父さんと母さんに祝ってもらって、大好きな日になった」
「ああ、よかったな」
「それから、火事のとき、助けてくれて、ありがと」
「――それは違う。助けたのは、お前の親だ」
そうかもしれないけれど、話を聞く限り、ゾロが居合わせなければダメだったかもしれない。ゾロと過ごした日はそれほど多くないのに、こんなにも感謝しなければならないことばかりだ。
「センセイ、もらってほしいものがあるんだけど」
ゾロの掛け布団と敷き布団の間を、サンジは手探りで進んで、ゾロの腕に触れた。筋肉が硬く、逞しい。まだ冷たさの残る布団の中でゾロの腕は温かく、サンジは確かめるようにそこを撫でた。
「……おねがい、センセイ」
ひくっとゾロの腕が微かに動いて、息を詰める音が聞こえる。サンジは手を動かすのをやめて、ゾロの二の腕に置いた。
「センセイ、おれの誕生日、もらって」
ゾロががばっと跳ね起きたので、サンジもびっくりして体を起こした。暗闇に慣れてきた目で、焦ったように目を見開いているゾロの表情が、うっすらと見える。
「たん、」
「な、なに」
「……誕生日、な」
ハーッと大きく息を吐くゾロに、サンジは何を勘違いさせたのか気づいてしまった。
「あああああのっ、おれ、センセイの誕生日、祝いたいし、その、えっと、もらいっぱなしだし」
慌てて言い連ねると、ゾロは吐息だけでふっと笑って、サンジの頭を撫でた。子供をあやすのではなく、恋人を愛おしがるみたいな手の動きに、サンジはドキドキした。一瞬、勘違いされたほうのソレでもいいかなと頭を掠めたが、昼間、当たり前みたいに交わしてしまったキスの意味も、まだ聞けていない。
「んな大事なモン、もらっていいのか」
ゾロが片手で胸元にサンジの頭を抱き寄せたから、額でゾロの鼓動を感じる。自分と同じぐらいの速さでドキドキしていて、サンジは嬉しくなった。
「何言ってんだ。センセイが先にくれたんだろ」
「――じゃあ、ありがたく」
ゾロはサンジの頭を抱いたままで、また布団に横になった。ふたつの布団に跨る中途半端な位置が気持ちわるくて、サンジはそろそろとゾロの布団の中へ移動した。あたたかくて、すっと溶けるように眠りに落ちた。
***
久しぶりの駅で降りると、桃色の花びらがひらひらと舞った。桜にはたぶんまだ早い。花の咲いている木が近くにあるようには見えないが、どこから飛んできたのだろう。
クラクションが鳴って、サンジが車を避けようとすると、助手席の窓が開いて、女が顔を覗かせた。
「ロビンちゃん! 今から出かけるの?」
「ええ。今日は帰らないから、ゆっくりしていってね」
ロビンのウィンクの向こう側に、運転席の男の体だけが見える。随分と体格のいい男だ。サンジの3倍以上はありそうな太い腕が、親指を立てた。
実の両親の墓参りに行ってから、サンジはゾロと個人的には会っていない。病院ボランティアの日には時々会うし、職員食堂で見つければ一緒に食べることもあるが、それだけだ。家では、週に1回か2回、料理を作っている。最初はぜんぶ自分でやりたい様子が拭えない母親だったが、サンジと一緒に作るのが徐々に楽しくなってきたようで、最近では母親のほうから誘ってきたりする。ほんのたまにサンジひとりで作ったときには、母親は事細かにダメ出しをしてくるが、父親は「サンジの味も好きだから、たまにはこっちも食べたい」なんて言って、息子を喜ばせるのだった。
4年生になれば忙しくなるから、それまでに、実の両親の埋葬を手配してくれたブルックという行政書士に会いにいこうと思っている。12月の墓参りは父親と母親には言えず、内緒で行ってしまったが、今回はちゃんと話した。今わかっているなかでは、ブルックは生前の実の両親を知る唯一のひとだ。だから、彼から両親がどんな人たちだったのか話を聞きたい。そう説明すると、ふたりとも一緒に行きたいと言ってくれた。
およそ20年ぶりの誕生日祝いだから、みんなでお祝いしようとサンジは提案したが、サンジとふたりだけがいいとゾロは言った。そもそも、サンジから誕生日をもらったことを、ゾロはロビンにしか話していない。
材料はサンジが持参した。自分的リベンジで、魚のから揚げ用にムツを選んだ。母親の味に、少し近づいてきたと思う。根菜のホットサラダは『サラダはキャベツの千切りだけじゃない』と言いたいだけのメニューなのだが、ちょっと嫌味だろうか。嫌味ついでにタケノコの煮物も考えたが、まだ時季が早いようだったので、諦めた。
以前は一緒にキッチンに立って、ゾロの指示に沿って作っていたが、今日はサンジひとりだ。だが、所在なげなのはゾロのほうで、うろうろとキッチンを覗いては去り、どこかに行っていたかと思ったらまた覗いたり、と落ち着きがなかった。何かを彷彿とさせる……と考えながら、サンジはニンジンを乱切りにした。最初にゾロに教えてもらいながらやった作業だ。もちろん、今日はちゃんと皮を薄く剥いている。
「わかった! 動物園のゴリラだ」
「アァ!?」
「飼育員さんって、こんな気持ちでゴリラの餌を用意してんのかなァ」
「てめェ、何言ってんだ」
額に青筋を立てるゾロを、サンジは「どうどう」となだめた。今日はなんだか、サンジのほうが大人だ。いや、大人ならゴリラの餌とか言わないか。
酒はゾロの希望で、日本酒の燗だ。これだけは、ゾロが嬉々として用意した。ゾロは酒と食事が一緒でかまわない性質なので、徳利とから揚げ、猪口とおにぎりが並んでいる。
料理を作り上げた充足感もありつつ、向かい合わせに座ると照れる。
「ええと、じゃあ、……誕生日おめでとう」
「ありがとう」
猪口を持ち上げて乾杯をする。4か月遅れての、ゾロの誕生日。やっぱり少し背中がもぞもぞと変な感じはするけれど、もうこれで通すのだ。これから、ずっと。
から揚げをぽいと口に放り込んで、もぐもぐ咀嚼するゾロを、サンジは箸を持ったまま動かせずに、じっと見つめた。最初の『もぐ』で両眉が少し上がって、次の『もぐ』で両目が少し開いて。『もぐもぐもぐ』でその目が綻んできて、咀嚼し終えたらすぐ、次のから揚げを箸でつまんで口に入れた。
――美味しいかどうか、言ってくれてもいいのに。
でも、わかる。『もぐ』1回につき、『美味い美味い美味い』と3回ぐらい言っているような顔だ。
空中を散歩でもしているような、ふわふわとした気分で、サンジは目を開けた。
「……ふぇっ!?」
猪口を口へ運ぶゾロの顔を、下から見上げている。
「お、起きたか」
「……え、何、……痛ェ」
起き上がろうとして、サンジはこめかみを押さえた。ガンガンと頭が痛い。
「飲んだ量は、それほどでもねェけどな。お前、昨日はちゃんと寝たか?」
「う、……3時間、半ぐらい」
「そりゃあ、アホだ」
今日の料理のシミュレーションを頭の中で繰り返しているうちに、空が白んできてしまったのだ。寝不足の上に慣れない日本酒を飲んだので、酔いが回ったのだろう。
「ええと、ごめん」
「別にいい。肴になるから」
ゾロはそう言って、サンジを見下ろしながら猪口を傾けている。畳の部屋で、サンジはゾロの胡坐の上に頭を置かれて、横になっているのだった。自分が肴と言われたのだと気づいて、カァッと体が熱くなり、再び頭が痛くなる。
「お前、病院ボランティアに来たのは、ロビンに言われたからか?」
唐突に、ゾロはそう訊ねた。
「うん。ロビンちゃんの紹介で」
「そうじゃねェ。おれに会いに来たんじゃねェか?」
「えっ」
そうだった。サンジ自身もうすっかり忘れていたが、最初はロビンに頼まれて、オハラ総合病院へ行ったのだ。夫を誘惑して、恋人になって――そんな、よくわからない内容だった。
ゾロはロビンがそんな頼み事をしていることを、知っているのだろうか。どこまで言っていいのかわからずサンジが口籠っていると、先にゾロが口を開いた。
「前に、ロビンとなんで結婚したのかって言ったな」
「……ああ、うん」
ゾロは、ロビンがそうしたいと言ったからだと答えた。
「本当は、見合いは、ロビンから断ってもらうつもりだったんだ」
病院長が直々に、娘と見合いをしろと言ってきたのを、ゾロから断ることはできなかった。別に結婚しないと決めているわけではなかったが、まだ考えていないというのが正直なところで、しかも院長の娘など、きっとすごく面倒だ。ありのままを話して相手から断りを入れてもらおうと考えていたら、見合いの相手は恋人がいると言ってきた。しかも、次期院長候補と結婚しなければならないので、恋人との付き合いはそのままで、結婚はしてもらえないかと頼んでくる。
「あんた、何言ってんのかわかってんのか。そんな勝手な」
「自分でも思っているわよ、酷いこと言うわって。本当は、私もお断りしようと思っていたの。でも……、あなたに会って、お願いしてみたくなった」
その言葉に、ゾロは少しだけ心が動いた。実はゾロも、ロビンに会って、何か引っかかるものがあったのだ。表現するのは難しいが、たとえば、生き別れの妹に会ったらこんな感じかもしれない、というような、懐かしく親しい心持ち。そして不思議と、この女の言うことなら聞いてもいいかもしれない、と思った。
「あのね、今からとてもおかしなことを言うわよ」
「どうぞ」
「昨日の晩、あなたの夢を見たわ」
ロビンは子供の頃から、つらいことがあるとき夢を見るのだという。何人かの決まったメンバーが、夢の中でロビンを力づける。全員出てくることもあれば、ひとりやふたりのときもあって、そのときはひとりだけ、ゾロにそっくりな男だけだった。見合い写真は受け取っているが、断るつもりだったからロビンは見ていない。それに、ゾロに似た男は、見合いの話が出るよりずっと前から、ロビンの夢に登場している。
夢の中でその男は、『協力してやろうか』と言った。
「『その代わり、コックに会わせろ』。あなたはそう言ったわ」
コックとは誰かと問うと、男は呆れたように『ハァ!? わかんだろ』と言ったのだという。
本人の言う通り、よくわからない、おかしな話だ。けれどロビンの目がとても真剣で、『こういう目をしているときのこの女の言うことは、大抵間違いない』と、なぜかそう思った。
それでゾロは、「わかった。結婚しよう」とその場で決めたのだった。
「それでも、夢の話はまァ、信じきっちゃいなかったんだ」
「うん」
「まさか、ロビンがそんな約束を守ってくるとは思わなかった。――コックってのは、たぶんお前のことだ」
年末にはいくら飲んでも顔色ひとつ変えなかったゾロが、目元を赤くしている。サンジは痛む頭を押さえながら、体を起こした。
「コックなんて腕前じゃねェよ」
「だが、そうやって会わせろって言うからには、」
ゾロはそこで恥ずかしさの限界がきたようで、いっそう赤くなった顔を隠すように、サンジをぎゅっと抱き締めた。
「惚れたヤツのことだろ」
「あー……。そんなら、おれかな……」
サンジもゾロの背に手を回して、ぎゅっと抱き合ったままの状態で、何分ぐらいいたのだろう。
最初は恥ずかしい恥ずかしいとそれだけだったのが、途中から何かしろよ動けよとだんだん相手にイラついてきて、そっちで先に限界が来たのはサンジだった。うがぁ、と唸ってゾロの腕から抜けだすと、小鳥が餌を啄むように、ちょんとゾロのくちびるに触れた。
「とりあえず、一流コックのおにぎりでも食えば?」
座卓の上に、徳利と猪口と一緒に、おにぎりの皿が置いてある。サンジの作った夕飯の残りだ。
「いただきます」
ゾロは手を合わせて、おにぎりに手を伸ばす前に、とりあえずお返しとばかりにくちびるを合わせた。小鳥みたいな可愛らしいのではなく、――そう、それこそ、ゴリラがニンジンを齧ったみたいな。
想像してサンジが笑っている間に、ゾロはおにぎりを頬張っている。いい誕生日だなァ、とサンジは思った。ゾロにあげた、サンジの。
これから教師を目指していくけれど、ゾロの専属ならコックと呼ばれてもいい。サンジはとてもいい気分で、笑って言った。
「クソうめェだろ」
一読後「自分では絶対描けないお話だな」と目からウロコでした
決まった形が愛、または幸福ではないなと改めて考え直し…
2人が幸せならおっけ!
大人な、どこかシックな色に染まったお話をありがとうございましたv ぱた
個人的に、ゾロから料理を教わるサンジがものっすごーく新鮮で萌えでしたv
逆はいくらでも見かけるけど、コレはレアだよね・・・少なくとも私は初めて見ました。
愛情には色々な形があるけれど、恋愛よりも、
「いつくしむ」という形の愛情を強く感じた作品でした。
あみさん、素敵な作品をありがとうございました! ひか