運命の人

ひろむ

東京競馬場の朝は早い。
大きなレースがあるときは、朝9時には大行列、それを整理したり案内する係員は当たり前のように7時には会場入りしている必要があり、もちろんサンジも、土日だというのに朝も早い時間から欠伸交じりで競馬場のまだ閑散とした場内を見回りしていた。腕には、案内員、と書かれた緑色の腕章を付けている。
卒業した先輩から頼まれて、書き入れ時の3月から6月までの4ヶ月、ここ東京は府中市にある東京競馬場でバイトすることになった。乗り気ではない上に、先月21歳にはなっているものの大学を中退後に調理師の専門学校に入りなおした経歴のサンジはいまだ学生の身の上、学生は馬券を買えすらしないんだから無理無理と、最初は出来ないと突っぱねたが、そんな時たまたまバイト先のコンビニがつぶれたことで急にぽっかりと収入の口がなくなってしまったサンジは、不承不承、この話を引き受けることにしたのだ。もちろん、経歴は大学中退のフリーター、ということになっている。
「サンジくん、おはよーう」
「おはようございます、マダム、本日もお綺麗ですね」
売店の、開店準備をしながら挨拶をしてくれたおばちゃんが、サンジの爽やかな対応に頬を染めてうふふと笑い返す。
競馬場なんてムサイ親父しか来ないんじゃないかと思っていたサンジに、先輩は「意外にバイトにも客にも女性多いし、結構悪くないぜ!」と言っていたのでそれだけは期待していたのに、客はともかくバイトや職員の大半はお姉さまではなくオバサマだった。下手をすればオバアサマだ。けっして年齢を経ているからと言って、差別することなく女性であることを尊重するサンジとしてはそれでも敬う対象には違いないが、先輩に次会ったら一発殴ろうと心に誓う程度にはやはりムカついた。とはいえ慣れてしまえば、彼女たちは皆優しくて、若い自分を可愛がってくれるので決して嫌な職場とは思わないのだが。
そろそろ9時を指そうとしている時計を見上げ、サンジは持ち場に着く。
サンジの持ち場はパドック近くの券売機付近。基本的な仕事は、その腕の腕章どおり案内係だ。この広い競馬場内の道案内はもちろん、馬券の買い方や券売機の操作方法なども説明する。時には『ニイチャン予想してくれ』なんて言って来る困った酔っ払いもいたりするが、さすがにそれだけは丁重にお断りしている。
今日は4月半ばの土曜日。それほど大きなレースは無い。
こんな日に朝から並んで来るような客は、ほとんどが生粋のギャンブラーだ。
サンジははぁと大きく息をついて、それから空を見上げた。
抜けるように青い空、最近ぐずぐずとゆるい雨続きだったから本当に気持ちがいい。少し風が吹いているが長袖の制服一枚でも丁度良い位で、爽やかな行楽日和だ。それこそ緑を求めてやってくる家族連れも多いかもしれない。
−今日もがんばりますか
そう心の中で宣言すれば、開門の音が聞こえた。今日も一日、忙しくなりそうだ。



ふと、目に留まったのは偶然だった。
いつもなら忙しくて見過ごしてしまうかもしれないけれど、今日は玄人が多いからあまり声をかけられないせいか、ぼんやり人間観察をしていたときに何故か気になってしまったのだ。
レース場の芝生と同化してしまいそうな、若草色の短めの髪。年のころは40前後。身長は高め。正直スーツは高いものではないだろう、でもそれを丁寧に着ている。きっちり折り目がプレスされたスラックスがその証だろう。すっと伸びた背筋とスーツ越しでも分かる筋肉のついた体躯。サンジのいる場所からは横顔しか見えないが、整った顔立ちをしていた。銀縁の眼鏡が、オッサン臭くもあり、でもそれが妙に似合っている。
−銀行マンか商社マン、かな
それにしちゃスーツが安いな、と、失礼なことを思いつつ、つまるところ『場違い』なのだ。
こんなところにスーツ姿で来るようなサラリーマンは、たいていちょっと崩れた雰囲気の営業マンが多い。時間が自由になるのだろう、煙草をふかし、ギャンブラーの顔で新聞を睨みつけて馬券を買うような輩だ。そんな奴なら別に目にも留まらなかっただろう。
でも、その男は違っていた。
アレは間違いなくガッチガチの堅物だ。初めて来たのではないだろうか。立ち尽くしたまま、物珍しそうに、10レースを実況するモニターを見ている。競馬新聞も持たずに、質の良さそうな革のかばんを手に下げているだけだ。
10レースが終わったところで、はたと我に返ったようにその男は動き出した。
−どこ、行くんだろ
目で追えば、今度は次のレースの配当を流すモニターを見ている。
11レースは本日のメインレースで特別レース。出走は3歳の若駒ばかりが16頭。実績の少ない3歳馬は予想が難しいと、近くにいた常連がぶつくさと文句を言っているのが聞こえた。サンジはなんとなく若草色から目を離さずに、たまに場内を見ながらしばらくそうしていると、パチリとその男と目が合った。
−あ、やべ
少し怪訝そうに、その眼が細められる。正面からよくよく見れば、先ほど横顔で見えなかった左目の上には大きな傷が走っていた。
−あ、りゃ、まさか堅気じゃねェのか?
サンジは若干の怯えを感じたが、それでも取り繕うようににこりと笑うと、その男に近付いた。
「すみません、初めていらした方かと思って、お声掛けした方がいいかどうか気にしておりました」
がんばって敬語で話せば、男は少し首をかしげ、ああ、と返事を返す。
「…客の顔を、覚えているのか?」
そりゃあすげェ、と言われて、サンジは慌てて首を振る。
「あ、や、さすがに覚えてないっす。ただ、お客さん、新聞も持ってねェし、あんまこんなとこ来る感じじゃなかったから」
慌てると言葉が乱れる。それを気にした風もなく、男は少しだけ笑った。
「ああ、そうだな。お見立てどおり、初めて来たんで馬券の買い方も分からねェ、教えてくれたらありがたい」
「お、俺でよければ」
何だかよく分からない緊張をして勢い良く頷くと、男はひょいと顔を上げ、モニターを指差した。
「あの、5番の馬を買いたい」
サンジもつられて見上げれば、丁度倍率が表示されていた。
5番の馬は…。
「え、アレ?」
「そうだ」
にやり、と笑われて、サンジは思わずははっと声をあげて笑ってしまった。
「…初めてで、あれっすかぁ。お客さん、やるなぁ」
先導するように歩き、マークシートの置き場を目指す。
「コレに書くんすけど、いま、書き方教えますね」
サンジは数種類のマークシートがささったラックこから単勝のシートを抜いて、ついでにポケットに入れていた赤ペンを一緒に男に渡した。
「これ、単勝用。単勝ってのは、一番になる馬を当てるやつ。今お客さんが言ったのはそういう意味だよね?えーと、ここの、開催場所とレース番号をマークして…」
サンジに言われるがままに、男は赤ペンでマークシートを塗りつぶしていく。
実を言えばサンジもここに来て覚えたのだから素人同然だが、先月一ヶ月かけて頑張って覚えた甲斐あってコレくらいはすらすらと答えられるようになっていた。
「5番、だから、5、を塗って…いくら賭ける?」
そう尋ねれば、男はポケットをごそごそと探り、びらりと無造作に折って突っ込まれた札を抜いた。ほとんどが千円札、5千円札が一枚だけあった。別のポケットを探るが、小銭が出てこなかったらしい、めんどくせぇとばかりに千円札を一枚抜いてぽんと置いた。
「…釣りも、出るけど」
「小銭がジャラジャラ言うのは好きじゃねぇ」
サンジは呆れたように一瞥したが、じゃぁ、と未完のマークシートを指差した。
「ここ、千円、ンとこ塗ってクダサイ」
「おう」
男はぐりぐりと赤ペンで塗りつけた。
「あとは、それで券売機に通すだけっす」
サンジがそういうと、男は満足げに自分の書いたマークシートを目の前に翳し、おさらいするように内容を確認している。その横顔は、先ほどよりも子どもじみて見えた。
「券売機も、説明すっから…あっち」
サンジがすたすたと移動すれば、大人しくついてくる男に、サンジはなんだか可笑しくてひっそり笑った。自分よりよっぽど大人のくせに、強面でヤクザみたいな顔をしているくせに、時々見せる表情が少年のようで、妙に可愛い。
−そのうえ、まさか5番かよ
モニターの前を横切るときに、今の最新の倍率が見えた。
最低人気。5番の倍率は、143倍。いわゆる万馬券だった。
券売機の説明も終え、ほくほくと嬉しそうに、物珍しそうに馬券を眺めている男に、サンジはにやりと笑って顔を覗き込んだ。
「…それ、当たったらメシ奢ってよ、お客さん」
男は少し驚いたように目を見開いた後、破顔した。
「…豪勢な飯、奢ってやる」
「よっし!んじゃ俺も5番に祈っとく。またなんか困ったことあったら声かけろよな」
踵を返し、ひら、と手を振れば、ありがとな、と声が飛んできた。
サンジは肩越しに振り向くと、笑いながらぐいと親指を立てて見せた。
男は笑って、同じようにサンジに向かって指を立てた。



疾風のように馬たちが走る。
まだ若い馬たちの柔らかそうなすべすべの毛が、汗が、傾いてきた日差しを受けてきらきら輝いているようだ。近くで見れば獣臭くて大きくて怖い馬も、こうして遠くで並んで走っている姿は一枚の絵のようで美しい。サンジはいま、こっそり持ち場を抜けて−どうせ今は全員スタンドに集まっているから人も居ない−屋外のスタンドからレースを見つめていた。
ダートコース1200mの短距離(スプリント)、勝負は1分も掛からずに終わる。
砂埃を上げて、第4コーナーを回ってきた。先頭は、最初から逃げ続けていたあの5番。でももう足色が怪しい。5馬身ほど離していた筈の、間合いを後ろから来た馬たちが詰めてくる。一番人気の、12番の葦毛の馬の頭が見える。5番と競るように、ゴールへと駆け抜けていく。5番も負けていない。粘り強く、もう一度伸びを見せて12番に食い下がる。
−神様!
いつもなら、こんなときだけ神頼みかよ、と鼻で笑っているくせに、思わず両手を握り合わせてサンジは神に祈ってしまった。もうすこし、もうすこしなんです、神様。
ほとんど同着で、2頭が並んでゴールに突っ込んだ。
サンジの口から、今まで出たことの無いような雄叫びがあふれ出た。その声すら飲み込まれるように、スタンド全体が沸く。
電光掲示板には写真判定の文字。
表示されるまでの時間が、こんなに長い時間だと、感じたのは初めてで。
緊張で握り締めた手のひらが、びっしり汗で濡れる。
場内アナウンスが流れ、はっと顔を上げた。
「写真判定の結果、一着…」



「で、まっさかほんとに当たるとはなァ!!」
程よく酔っ払ったサンジは、咥え煙草のまま上機嫌でばしばしと男の背中を叩く。
返ってきた配当金は、結局144.5倍で14万4500円。ビギナーズラック、とはよく言うが、こんな見事なものを初めて見た。
興奮冷めやらない状態で持ち場に戻ったサンジを、男は律儀に探し出すと声をかけてくれた。サンジはそれも嬉しくて、一緒に抱き合って背中をたたき喜び合った。あの眉間の皺の濃い強面が、まるで優勝した高校球児のように顔を緩めて笑って興奮する姿に、サンジは年齢差を忘れるほど嬉しくなって、そのまま連絡先も交換した。連絡先を交換するときに、お互い名前も名乗った。男は、ロロノア・ゾロ、だと言って、丁寧に名刺もくれた。建築会社の資材調達課、課長、と書いてあった。サンジの予想は外れたが、やはり堅そうな会社には違いなかった。
そして、いったん帰ると告げたその男と、仕事終わりに新宿で待ち合わせて飲み屋街にくり出した。
豪勢、とは言ったけれどサンジは年若い学生で、その上男二人で和食だフレンチだでもないだろうと、すこし自分には贅沢な洒落た居酒屋に入った。冷静になったこともあり、最初のうちはひどく恐縮していたサンジも、酒にそれほど強くないこともあって、2件目のバーに移動するころにはすっかり打ち解けた雰囲気になっていた。
「いてェな、年上だぞ、もうちょっと遠慮しろてめえ」
ゾロは呆れたようにサンジの頭をぐいと押しのける。その手元のロックグラスの中には、サンジが聞いた事が無い銘柄の茶色い酒が揺らめいていた。とろんと酔っ払いの顔で、押しのけられながらもサンジは白い煙を吐き出してむふふと機嫌よく笑う。
「オッサンのおかげで美味い飯と酒にありつけて、俺もラッキー」
「そら良かった」
ふん、と鼻を鳴らしてゾロは笑った。
「うん、俺、いますげぇ楽しい」
おかわりぃ、と、カクテルグラスを差し出すサンジの手を止め、チェイサーくれ、とバーテンに告げる。サンジはぷぅと唇を尖らせた。短くなった煙草を灰皿に擦り付け、次のに火をつける。
「ぁんだよ、まだ飲めるろ」
怪しげな呂律で、唇にはさんだ煙草の先をピコピコと器用に揺らしながらゾロを上目遣いで睨みつけた。その頭を、ゾロの大きな手がくしゃりと撫でた。
「休憩しろ、帰れなくなるぞ」
「べっつに、明日もけーばじょーでバイトだしィ、朝まで飲んれもいいぜ、俺ァ」
金はださねェけど、とけらけら笑うと、タチ悪ぃな、と呆れた声が返ってくる。でも、それが別に嫌がっている風じゃない声で。年上の男性に甘やかされることには慣れていないはずなのに−サンジの両親は早くに他界していて、育ての親の祖父は厳しかった−、サンジはなんだか、ゾロのふわふわと甘やかすような優しい空気がひどく気分が良かった。
煙草を指に挟み、出されたチェイサーを、ごくりと飲む。冷たい水が喉に心地よい。
「…てめえの家、どこだ?」
ゾロの言葉に、サンジはん?と首をかしげる。柔らかい金糸のような髪がゾロの肘に当たって零れた。
「新小岩」
「俺は四谷だ、ならまぁ、途中までは中央線で一緒に行けるな」
「もうなんか、帰ンの、めんどくせぇ」
首をかしげたまま、バーのカウンターにぺたりと頬をつけて、サンジはんーと呻く。ゾロは更に呆れたように深くため息をつくと、サンジの手から煙草を奪って灰皿に潰した。自分のグラスの中身も一気に飲み干し、会計をさっさと済ませる。
「帰るぞ、おら」
ぐいと腕を引かれ、サンジはゾロの肩にもたれかかる。ゾロはそれを振り払うことも無く、仕方ねェな、と舌打ちしつつもそのまま好きにさせていた。
店を出れば、夜の空気が火照った頬にひやりと冷たい。
「なぁ、オッサン」
「あのなぁ、オッサン、じゃねぇ、ゾロだ」
「マリモ?」
「ぁんだと!?ここに捨てていくぞ、てめえ」
ゾロの反応に、くつくつとサンジは笑う。
何だか不思議だった。甘える、というのは意外と心地よいんだと、初めて知ったような気がする。ゾロの肩にもたれたまま、ゆっくりと歩く。身長がそれほど変わらないから、不自然な体勢になるが、それでも何だかそうしていたかった。
「俺ァ、親がいねぇんだ」
サンジの言葉に、ゾロは何も言わずに少しだけ眉を上げる。
「なんか…オッサンみてェな人に、甘やかされんのって、悪くねェな」
すり、と肩口に頬を擦り付ければ、ゾロは諦めたように苦笑するとぽんぽんとサンジの頭を撫でた。
「…まぁ、俺だって早く結婚すりゃァてめえくらいの子どもがいてもおかしくねェワケだからな…今だけは甘えてろ、酔っ払い」
「ん、さんきゅ」
とろとろと眠気が襲ってくる。サンジは目の前の、こうこうと光る新宿駅を見上げたあたりで、ぷつりと記憶が途切れた。


サンジが目を開けると、いつもの4畳半の、小汚い板張りの天井、ではない、真っ白いクロスの、明るい天井が飛び込んできた。慌てて身体を起こすと、10畳ほどの部屋に、深い緑のカバーが掛かった大きなベッド。サンジはそこで一人で寝ていた。いつの間に着替えたのか、少し大き目の、ストライプのパジャマが起きた弾みでずるりと肩が落ちた。
カーテンもベッドと同系色の緑。モダンな黒のサイドボードと、クローゼットの茶色い扉とあいまって、なかなかセンスのいい落ち着く色合いだった。
しかし、今のサンジにはそんなことはどうでもよくて、問題はここがどこか、ということで。
「あれ、俺昨日、どうしたっけ…?」
ゾロとか言うオッサンと新宿で飲んで、新宿駅まで戻ったのは覚えている。でも、そこで記憶がぷつりと途切れていた。前頭部のあたりが、ジン、と鈍く痛い。軽い二日酔いだろうか、と、額を押さえてため息をついた。
「…お、起きたか」
目の前のドアが開くと同時にそう声をかけられて、サンジはぱっと顔を上げる。そこには、無精髭のゾロがオッサンTシャツにトランクスという明らかな下着姿で立っていた。
「ああ、ハイ、今起きました」
「そうか、おはよう」
「…お、オハヨウゴザイマス」
固まったまま、鸚鵡返ししか出来ないサンジにゾロが噴出す。
「…何もねェけど、なんか飲むか?」
「はぁ」
サンジはごし、と目元を擦り、ベッドから恐る恐る降りると床に足をつけた。
「俺はちょっと顔洗ってションベンしてくっから、先にリビング行ってろ」
可笑しくてしょうがないというように肩を震わせて、ゾロは顔を引っ込めた。サンジは部屋を出ると、きょろきょろと顔を出して廊下を見渡す。ゾロは玄関側に行ったように見えた、リビングは多分反対だろうと見当をつけ、突き当りのドアを開ければダイニングテーブルとソファのセットがある、広いリビングが目の前に現れた。モダンな黒いテーブルセットに、革張りのソファセット、低いガラステーブルの上には無造作に新聞が投げられていた。サイドボードの上には、40インチ以上あるだろう、大きなテレビが鎮座している。男の一人暮らしにしては、全体的に思ったよりも荒れていない。ふわりとコーヒーの香りがする。
そして、何よりサンジの目を奪ったのは、リビングの横にあったカウンター付きキッチンだった。目を輝かせて吸い込まれるように近付き、まだきらきらと輝きのある大きなシンクを覗き込む。
「最新のシステムキッチンじゃねぇか、いいなァ」
「うっわー、憧れの3口コンロ!何だよ、グリルも上下で火力設定できる奴か、すげぇ」
「うお、ビルトインのガスオーブン!?くっそー、使いてェ」
ひょこひょこ覗き込みながらついつい感想が口から付いて出る。
「冷蔵庫もでけぇなぁ…」
人様の家だということを忘れて躊躇無く空けると、中段に、一段びっしりとビールの缶、その下の段には瓶詰めのイカの塩辛、なめたけなど、そのままつまみになるものがぱらぱらと。ラックの中にはペットボトルの水と日本酒の瓶。
野菜室は空、冷凍庫には、ロックアイスの袋が二つ。
全てあわせて、それだけだった。
思わず目が点になる。
「…なァにしてんだ、てめえ」
びくりと身体を震わせて振り返れば、上下にグレーのジャージを着て、首にタオルを巻いたゾロがカウンターからこちらを覗きこんでいた。
サンジは慌てて冷蔵庫の扉をパタンと閉めると、それに寄りかかる。
「…酒と水しかねェのな」
「それしか必要ねぇからな」
ゾロはカウンターの端にあるコーヒーメーカーから、ポットを引き抜くとマグカップに注いでサンジに渡す。素直にそれを受け取りながら、サンジはふぅんとキッチン内を見渡した。確かにキッチン内には、かろうじて鍋とフライパンが一つずつと包丁とまな板が一組あるが、それ以外の必要な道具も、調味料すらろくに見当たらない。無駄に良い炊飯器があるが、電源すら入っていなくて余計に悲しい。
「…こんな良いキッチンなのに、使われてねェなんて…」
宝の持ち腐れだぁ、とサンジは無性に悲しくなって大きなため息をつく。
サンジの安いアパートのキッチンは、一口の電気コンロでお湯を沸かすだけで20分掛かるような代物だ。こんなすばらしいキッチンで一日中料理できたら、どれだけ幸せだろうか。
ずず、とコーヒーを啜れば、香りの良い酸味の少ない好みの味で美味しかった。
「コーヒー煎れるくらいしか、してねェな」
ゾロも同じようにコーヒーを飲みながら、ダイニングテーブルの椅子を引いてそこに座る。
「ここに越してきたとき、とりあえず米だけは炊いてみたけどよ」
後始末したり洗ったり生ゴミ捨てたりすんのが面倒でもうやってねェ、とまるで自慢するように悪びれた風もない答えが返ってくる。
「そういや、コックなんだったか、おめェ」
「まだだけどな、調理師の専門学校生だ」
キッチンから出てサンジもダイニングテーブルにつき、コーヒーを片手に頬杖を付く。
あー、勿体ねぇ勿体ねェ、俺が欲しいくらいだと、サンジがしつこく繰り返すと、ゾロは面倒くさそうにじろりとサンジを睨みつけた。
「…そんなに使いてェんなら、いつでも貸してやる」
「ほんとか!?」
顔を上げ、思わずゾロのほうに身を乗り出す。ゾロは苦笑した。
「まぁ…別に、使いたきゃ使え、俺は構わねェが…」
サンジは少し考るように顔を上げ、それから時計を見て小さく「あ」と呟くと、ゾロに向き直った。
「オッサン、今晩、暇か?」
「…特に用事はねェな」
「じゃぁさ」
サンジはにやりと笑って、名案とばかりにコーヒーを持つ手の人差し指を立てる。
「今晩、ここのキッチンで俺が飯を作ってもいいか?」
両眉を上げて、驚いたような顔でサンジを見つめてから、ゾロは柔らかく微笑んでぽんとサンジの頭を叩いた。
「…好きにしろ、もうバイトだろ、行って来い」
「そう、そうなんだよな、悪ィなオッサン」
サンジは立ち上がると、そういや服服、ときょろきょろする。ゾロは立ち上がって寝室に行くと、クローゼットの中からハンガーにかけてあった、昨日のサンジの服を手渡した。
「これだろ」
「あ、アリガトウゴザイマス」
受け取って、リビングでそのままパジャマを脱いで着替える。風呂も入りたかったけどそんな時間の余裕は無い。
「もしかして、パジャマ、オッサンが着せてくれたのか」
服を身につけながらそう聞けば、ゾロはさも当たり前というように頷きながら、からかうように口の端を上げた。
「ガキが寝ちまったら、そういうことはオヤジがやらなきゃな」
「誰がガキだ」
ばふ、とパジャマを投げつけたら余計に笑われた。
「そういうところがな」
頭にぽんと手を置かれて、余計に恥ずかしくなる。そういえば、そんな甘えたことをゾロに言ったような気がする。
「…クソ、藻類をオヤジにした覚えはねーっつぅの」
ふんと顔を背けたら、じろりと睨まれた。
「…今すぐたたき出すぞ、このグル眉」
「ぅるせぇ、ハゲマリモ」
べぇと舌を出して、さっさと玄関に向かう。ゾロは眉間に皺を寄せたまま、呆れたようなため息を一つついて、一緒に玄関まで付いてきた。
「これ」
ぴら、と万札が数枚、目の前に差し出される。サンジはぎょっとして手を引いたが、ぐいと手をつかまれてその中に押し込まれた。
「食材とか、よく分からんが鍋とか道具とかもいるんだろ?コレで好きなだけ、豪勢に買ってくりゃいい」
「でも、コレは昨日オッサンが当てた分だろ…?」
サンジは札を握り締めたまま、目をうろうろとさまよわせる。そんな気を使わせるつもりではなかった、単純に、思い切り料理がしたかっただけで。
「どうせ昨日使いきれなかった、あぶく銭だ。気にすんな」
肩を掴みくるりと身体をドアに向けられて、ほら行け、というように、とん、と背中を押される。その優しい仕草に、サンジの心臓がどきりと鳴った。
「さ、サイコーの飯、作ってやるからな!かかか、覚悟しろよっ!」
後ろ向きでそれだけ言い捨てて、勢いよくドアを開けるとそのまま飛び出した。
−何だろう、何でこんなドキドキすんだ。オッサンなのに、すげぇ優しいけど、普通の男のオッサンなのに!
自問自答しても答えが出るわけでもなく、エレベーターの前まで行って振り向いたら、ゾロが玄関のドアに寄りかかるようにして手をひらりと振っていた。サンジはそれにちらりとだけ視線を投げると、また前を向く。次に振り向いたらもう姿は消えていたけれど、ドキドキはマンションを出て、四谷の駅から電車に乗るまで続いていた。
職場である競馬場に着いたとき、ふと気付いた。
なんで、ゾロはここに来たのかと、その理由を聞きそびれたことを。



箸をつけ、ぱくり、と口に運んだゾロの第一声が
「うめェ」
で、サンジは思わず頬がにんまりと緩んだ。
その後は、一緒に用意したきりっと冷えた冷酒を飲みながら、ゾロは黙々と目の前の料理に箸を付けていく。
あの少ない冷蔵庫のラインナップからいって、バーでは外国の酒を飲んでいたが基本は日本酒好きだろうと見当をつけて、和食にしたのは正解だったとサンジは一人満足に浸る。サンジの専攻はフレンチだったが、和食とのマリアージュなんかも人気ということもあり、和食は個人的に勉強していた。それがこういう形で実践できると嬉しい。
「やっぱ、あのキッチンすげぇ使いやすいぜ。オーブンもガスだから火力強いし、コンロも3口あるとやっぱ早いぜ、それにちゃんと火なのが良いよなァ、今時のオール電化もいいんだろうけど、俺はやっぱこっち派だなァ」
無言だけれど美味しそうに食べるゾロを見つめながら、サンジはべらべらと喋る。ちゃんと聞いてはいるのだろう、時々ちらりと見る視線が心地よい。
「てめえは」
「ん?」
サンジが首をかしげると、ゾロは顎をしゃくる。
「喰わねェのか」
「ああ」
サンジの前には、皿も箸も無い。
「俺は良いんだよ、作るほうなんだから」
コックが客と一緒に料理食ったらおかしいだろ、とわざとらしく両手を挙げると、無言でゾロが立ち上がて、ぽこ、と優しく頭を叩かれた。
「てめえはコックじゃねぇし、俺も客じゃねぇ。飯をひとりで喰っても美味くねェ、てめえも喰え」
反論する前に、箸と皿を置かれた。ちなみに、箸も皿も今日サンジが買ってきた。安物だが、とりあえず揃いのものをと2セット買ってきたそれは色違いで、まるで恋人同士か何かのようで恥ずかしい。
箸を手に取り、それでも少し躊躇っていると、置かれたグラスに酒を注がれた。
「飲め、飲めば喰いたくなる」
口調はそっけないが、それが多分ゾロの優しさで。
サンジはいただきます、と手を合わせて、グラスの酒を一口飲む。コレも今日の料理に合わせて買ってきたものだ。酒屋お勧めの特別純米酒。ほんの少し辛味が強いが、料理によく合う味だ。目の前の、ブリ大根を皿にとり、一口食べる。さっき散々味見した味だけれど、妙に美味しく感じた。
「美味いなァ、やっぱ俺天才だな!」
「言ってろ」
自画自賛するようにワザとらしくふざけてそう言えば、ゾロは苦笑して酒を飲む。
誰かと、こうやって向き合って飯を喰うのは久しぶりだ。18で育ての親であるジジイの家を出た。それからは、誰かと飯といえば外で学校の友人と食べるくらいで、家でこうやって暖かな食事を囲む楽しさを、サンジはすっかり忘れていた。それが何故この目の前にいる、40絡みのオッサンとなのかということは置いておいても、なんだかこの暖かさがくすぐったくて、口元が緩む。
「…悪くねェな」
「ん?」
顔を上げれば、パチリと目が合った。
「こうやって、誰かと家で飯喰うのも、いいもんだと思ってな」
ゾロは小さく息をついて、微かに笑う。
「この家は、仕事の関係でどうしても、ってだけで別に買いたくて買ったわけじゃねェし、その上誰かを呼ぶのは初めてでな」
「ふぅん」
贅沢なことで、と思いながら、サンジは手元でグラスを揺らした。
「オッサン、結婚してねェんだとしても、彼女くらいいるんじゃねェの?」
わざとからかうような口調で首を傾げれば、ゾロは痛いところを突かれた様な顔をして唇を曲げた。そして、それには返事をせずにまた酒をぐびり、と一口飲む。サンジもなにかを察して、追求はしなかった。
「煙草、吸ってもいいか?」
サンジがそう聞くと、ああ、と返事が返ってきたからサンジは胸ポケットから煙草とライターを出して、一本抜いて火をつけた。甘い香りのする紫煙がふわりと漂う。
さっきまで飲んでいたビールの缶を灰皿代わりに、その口に灰を落とした。
ゾロはまた一口酒を飲む。
「…結婚、してェと思う奴の気持ちが、今は少しだけ分かるな」
「そうなんだ?」
サンジには、まだ現実味の無い話だ。それでふと思い出す、年齢差が20歳くらいあるのだということを。
「俺ァ今年で42になる、今まで独り身を通して、そろそろ誰からもお声が掛からなくなってきて思うんだがな…やはり時々は寂しいさ」
ぱくり、とほうれん草の白和えを口に入れ、もぐもぐと食べてからゾロはホッと息を吐いた。
「こういう、あったかい飯と、誰かとの会話が家にあるってェのは、悪くねェ」
だから結婚したい、って思うのかもな、とゾロは続け、眼を細めて何かを考えるようにグラスの中身を見つめる。そこに何かが映っているのかのように。
サンジは何か言わなきゃいけないような、妙な焦りを感じて、話す内容もまとまらないままに口を開いた。
「だ、だったら!また…俺が、作ってやる、から」
そう言葉が出て、自分でも驚くが、ゾロも驚いたように顔を上げた。
サンジが煙草をかみながらもごもごとしていると、ゾロは先ほどのような切なげな顔を崩し、ゆったりと笑った。
「そうか」
「せ、せっかく、鍋もフライパンも、包丁も食器も買い足したし、開けちまった調味料とか残った食材とか、どうせてめえ、使えねえだろ?だから」
何だか勢いが付いてしまい、煙草をぐりぐりと空き缶の上で潰しながら、まくし立ててた。息継ぎするように、はぁ、と一呼吸をついてから、サンジはちらりとゾロを見る。ゾロは変わらず笑ったままだった。
「…勿体ねぇから、俺が使ってやる、よ」
ひどく偉そうな物言いだが、ゾロはははっと明るく笑い返した。
「そうしてもらえたら、ありがてぇ」
「お、おう」
何だか頬が熱い。サンジはそれを悟られないようにと俯いた。
勢いづいて変なことを言ってしまったが、サンジとしても、ゾロが美味いといって自分の作った飯を食べてくれるのが、悪くないと同じように感じてしまったのだ。誰かのためにご飯を作るなんて、実家にいたとき以来で。それもジジイは、サンジの飯はいつもまだまだだとばかり言って美味いなんていわれてことも無かった。そう、正直、すごく嬉しい。
もう一度、ゾロのために作ってやりたいと、本当にそう思っていた。
ゾロは、またおかずをつまみ、もぐもぐと口を動かす。
「…うめェな」
「…うん」
顔が熱くて、耳まで火照ってくる。サンジはしばらくずっと俯いていた。
ゾロはそれ以上何も言わずに、ただ黙ってご飯を食べていた。



そんなことがあって、サンジは専門学校が終わってから、ゾロの家でご飯を作ることになった。その日のうちに合鍵を渡され、キッチンは好きに使っていいことになった。食材の費用はもちろん、光熱費もゾロもち。今のところ土日の競馬場以外はバイトも入れていないし、ゾロは一緒にご飯を食べることを強要するので飯代も浮く。サンジの予定も尊重してくれるし、ゾロ自体平日は接待や飲み会があって毎日ではない。平日は2、3回、あと土日はほぼバイトの後、ゾロの家に行くという形になった。
やってみれば全く苦にならず、暗くて狭い我が家よりも快適なマンションで、家主のいないキッチンに夕方から篭って手の込んだ料理を思う存分作るのは楽しくて仕方が無い。いつもならファミレスでやるような課題やレポートも、ゾロの家でやればいいから細かな金も浮いた。
部屋の掃除も、服のクリーニングも全て業者任せだったことが判明し、料理が終わると時間をいつももてあましていたサンジはそれなら俺がやる!とそれまで請負い、いっぱしの家政婦のようにゾロの部屋を磨き上げた。
さすがにそれは悪い、ということで、5月の連休明けからは正式にゾロからバイト代をもらうことになった。最初は好きでやっていることだからと拒否したが、確かに平日バイトを入れられないので懐が寂しいのは事実で、もともと業者に払っていた分だけでも受け取れと月5万でバイトすることにした。



そして、何事も無く日々が過ぎ、気が付けば4ヶ月ほど経過していた。
競馬場のバイトはなんだかんだと延長していて、今も引き続きやっている。
もちろん、ゾロの家の家政婦も。
その日、いつもどおりサンジは御茶ノ水にある専門学校から四谷のゾロのマンションへ行き、夕方から夕飯の仕込みに精を出していた。
9月に入ってまだ残暑は残るものの、スーパーに並ぶ食材が少しずつ秋めいてきた。今日のメインは夏の名残のラタトゥイユを添えて、塩麹に漬けた鶏肉のチキンソテー、それにしいたけを入れた五目炊き込みご飯。小鉢は秋らしく焼き銀杏、小松菜とシメジとわかめの和え物。味噌汁はシジミ。白菜の漬物もある。これで足りなければ、昨日から漬けておいた銀ダラか鰆を焼いて出しても良い。
そうぶつぶつ考えながらラタトゥイユの味を確認していれば、携帯がメールの着信を知らせた。いつもと同じ、「今出た」だけの帰るコールで、それでもなんとなく頬が緩む。メールの後、30分ほどでゾロは帰ってくる。
サンジは、ゾロに対してのこの不可思議な感情を、いまだ言葉に出来ないで居た。ふとした拍子にドキドキする。何気ないことに嬉しくなる。
一緒に居たところで特別なことをするわけでもない、会話も普通だ。
ほとんどサンジが一方的に話している。学校であったことが8割で、たまに実家にいるジジイのこと、子どものころの話。ゾロは相槌を打ち、基本的にあまり話さないが、時々サンジの話している内容に突っ込みを入れたり質問をしたりする。それが適格だから、ちゃんと話を聞いてくれてるんだという安心感があって嬉しい。機嫌がよければ、ぽつぽつと、その日会社であったことを話してくれたりもする。
そして、食事が終わればサンジは家に帰る。泊まって行けと言われるときもあるけれど、それはサンジのけじめだった。
本当に、ただそれだけの関係なのに、一緒に居る時間を楽しいと感じる。
これが、今まで自分が味わったことの無い親子のような関係に対する喜びなのか、それ以外の、何か、よく分からない感情なのか。追求するのも面倒な上に何か良からぬことに気付いてしまいそうで、サンジはあまり考えないようにしていた。ただ、無意識のうちに、この時間を楽しんでいたし、ずっと続くのだと思っていた。
−さて、風呂の用意しますかねェ
サンジはコンロの火を止め、ゾロが来たら温めなおすだけの状態にしてキッチンを出ると、浴室に向かった。勝手知ったる、では無いが、すっかり慣れたサンジは、ゾロの下着と部屋着のTシャツにハーフパンツを出し、籠に入れ、風呂の栓をしてお湯をためる。風呂の掃除は来たときに既に済ませてあった。
リビングに戻り、あと15分ってとこかな、と見当をつけると、予熱のためオーブンに火を入れる。ゾロが風呂に入っている間に鶏肉を焼く予定だが、たいていカラスの行水なので早めに準備しておく。テーブルのセッティングなどをしていれば、かちゃりとドアの鍵が回る音が聞こえた。
サンジはキッチンを出てリビングを横切り、玄関に向かう。
「おかえりなさーい」
「おう、ただいま」
雨に降られちまった、とゾロはぶるぶると頭を振った。
小雨なのか、ずぶ濡れというわけではなくて、頭と肩の辺りがうっすらと湿っている。サンジは浴室に行くと、タオルをもって戻ってきた。
靴を脱いだゾロの頭にそれをぱさりとかけて、ごしごしと擦る。ゾロは擽ってェと笑いながらなすがままになっていた。
「飯もあるけど、風呂沸いてるから先に風呂にするだろ?」
床に鞄を投げだし、上着を脱ぎながらゾロはそうだな、と返事をした。タオルをサンジから奪い取り、代わりに上着を渡し、タオルを肩にかける。
「いつも悪ィな」
「べっつに、バイトだし」
へへ、と笑えば、ゾロはくしゃくしゃとサンジの頭を撫でた。
「バイトってより、嫁貰ったみてェだけどな」
どきりとサンジの胸がなる。
「…嫁じゃねェし」
思わずそう反論してから、つ、と顔を上げてからかうように口の端を上げた。
「嫁なら、続きがあんだろ?」
「ん?」
サンジはきょとんとした顔のゾロの首にするりと腕を回すと、顔を寄せて眼を細め、出来る限り可愛らしく首をかしげた。
「それとも、あ・た・し?」
ゾロの隻眼が見開かれる。な、と小さく呻いて焦るように後ずさった。サンジはその体勢のまま、顔を崩してひゃははと笑った。
「…焦ってやンの、可愛かったか?」
ぱっと手を離して、そのままひらりと手を振る。
「俺じゃなくて、早く可愛い嫁さん貰って、やってもらえよな」
自分でそう言って、なぜかずきっとサンジの胸が痛む。
唐突に気付いた。もしゾロに好きな人が出来て結婚なんてしたら、それ以前に彼女が出来たら、自分はもうここに来れないんじゃないか、ということを。
−ちょっと、寂しいかも
サンジはその思いを隠すように作り笑いを浮かべ、さァオッサンは風呂風呂、と言いながら、くるりとゾロに背を向けた。
その瞬間。
ふわりと暖かいものに包まれた。それからぎゅっと、力強く。
雨の鉄っぽい匂いに混じって、ゾロの匂いがした。
それがゾロの腕の中だと気付くのに、数秒掛かった。
「…え、と、オッサン?」
慌てて振り向くと、ゾロははっと我に返ったような顔をしてぱっと手を離した。
「や…すまん」
風呂だな、風呂。
そう言って、ゾロはつかつかとサンジの横を過ぎ、浴室に行ってしまった。
サンジは、ゾロの背中が浴室の中に消えると同時に、床にぺたりと座り込んだ。
心臓が痛い。ありえないくらいドキドキと早鐘を打っている。顔が熱くて、全力疾走の後みたいに苦しい。
−なんで、俺、こんなドキドキしてンの?
胸をぎゅっと押さえる。
先ほどの切ない、寂しい気持ちとあいまって、本当に涙が出そうだ。
−びっくり、しただけだよな、うん
一瞬沸いてきた答えを振り払うようにサンジはぶるりと頭を振ると、立ち上がってキッチンへ向かった。
−考えない、考えない。
考えたらダメだ、と、そう思っている時点でもうダメなのだということにサンジは気付いていなかった。



その後は普通に二人でご飯を食べた。ゾロも、別にいつもと変わらなかった。
サンジは少しだけドキドキを引きずっていたけれど、それでもそれが表に出るほどではなかった、はずだと思っている。
でも、いつもよりは多分会話が少なくて。
「…たまには、テレビでもつけよっか」
無言に堪えられず、何気なくそう言ってサンジはリモコンを操作した。いくつかチャンネルを変えるうちに、無難なトークバライティを選択してつけていると、誕生日の話題をしていた。
「…そういや、オッサン、誕生日いつ?」
何気なくそう尋ねると、ゾロは、ああ、とチキンにかぶりつきながら頷いた。
「…11月、11日だ」
「わ、ポッキーの日だ!へー、いっぺん聞いたら忘れねェな、それ」
そうよく言われるのだろう、面白くなさそうな顔でゾロはフンと鼻を鳴らす。
「そうか、じゃァその日はこの天才の俺様が腕によりをかけて美味い飯作るな、ケーキもな!」
「…甘いモンは好きじゃねェ、ケーキよりは酒がいい」
「何だよ、こういう日は無きゃ寂しいだろ?」
てめえでも食べれるケーキを作ってやるよ!と指を突きつけて高らかに宣言したら、ゾロは諦めたようにふうと息をついた。
「…まぁ、てめえの作ったモンは何でも美味ェからな、一応楽しみにしとく」
僅かに微笑まれて、またどきりと心臓が鳴った。サンジは少し赤くなった顔を背けると、そーだろー、と軽口を叩くフリをした。
「ちなみに、俺は3月2日だからな!何でも貢いでくれてかまわねェぜ!」
「へいへい」
ゾロは呆れたように笑って、ビールを飲んだ。
それを、半分上の空でサンジは見ていた。
心の中で、11月11日、と繰り返す。まるでそれが大切な言葉のように、何度も何度も。



「見合いすることになった」
そう告げられたのは、10月も半ばの土曜日だった。バイトを終え、ゾロの家でいつものように晩御飯を食べているとき、それは唐突にゾロの口からもたらされたのだ。
その日はゾロのリクエストでハンバーグで、さっきまでそれが子どもっぽいだの何だのと他愛も無い話をしていたので、サンジはその言葉を理解できなかった。
いや、内容は分かっている。でも、それを脳みそが理解することを拒否しているような感じで。なので思わず、もう一度聞き返した。
「え?」
大食らいのゾロ仕様の、大きなハンバーグを口いっぱいに頬張っていたゾロは、もぐもぐとそれを租借してかごくりと飲んで、ビールを一口飲むと、それから落ち着いた声でもう一度その言葉を告げた。
「あ?ああ、だから、来週の土曜日、お見合いすることになってな」
夕飯時らしいから、来週土曜日の晩飯はいらねェ、とそう続けた。
サンジは少し顔を伏せ、へぇ、と相槌を打つ。
「てめえみていなオッサン、相手にしようなんて奇特なレディが居たんだな」
何故かイラついた声が出た。それを誤魔化すようににやっと笑って顔を上げ、わざとらしく肩をすくめる。
「俺なんかこのオッサンの飯作るために、合コン蹴りまくりでいまだ彼女無しだって言うのになァ」
それには今度はゾロがむっとした顔をした。
「何だよ、てめえに用事があるときは良いっていってんだろ?」
「ンな、こちとらバイトで金貰ってんだ、そんないいかげんなことできねェし」
語尾が弱まって、もごもごと口篭る。別に文句が言いたいわけじゃないから続かない。じゃあ何が言いたかったのかと言われても困るのだが。
「じゃあ文句言うんじゃねェ」
「文句、じゃねェ」
ふん、と顔を背ければ、困惑したような溜息がゾロの口から漏れた。
「…俺が、見合いするのがいやか?」
どきりとサンジの胸が跳ねる。思わずゾロに顔を向け、は、と鼻で笑った。
そうでもしなければ、図星すぎて泣きそうだ。
「い、嫌じゃねェよ、なんだそれ、むしろめでたい話だろ?めでてぇめでてぇ、何なら明日、祝い膳でも作ってやるよ」
感情の伴わない、ぺらぺらの言葉だけが口から溢れる。
ずきずきと、話せば話すほど胸が痛むのに。
「コレで俺もお役御免だ、はー、清々したぜ。やっとてめえの辛気クセェ面、毎日のように拝まなくて済むしな」
ダン、と勢いよくテーブルを叩く音がして、サンジはぴたりと口を閉じた。
そろりとゾロを見れば、テーブルに打ちつけた拳が震えている。ひくりと、唇の端が痙攣しているのが見える。
怒らせた。
間違いなく言い過ぎた、そう思うには遅すぎて。口から出た言葉は戻らない。
「…てめえは、そう思いながらここに来てたのか?嫌々だったのか?」
絞り出すような声は、怒りというよりも苦しそうに聞こえた。
「年は違うが、息子か友達が出来たみてェで、楽しいと思っていたのは俺の一人よがりか?てめえは最初っからバイトってだけだったのか?」
見上げるゾロの、金が混じる漆黒の瞳が揺れる。ああ、この目が、俺は好きだ、と気付いた。
「…俺は息子でも、友達でもねェ」
俺は何になりたかったのか。
気付いてしまえば簡単なことだ、俺にはなれないものに、なりたかったのだ。
−コレは嫉妬だ
サンジは今改めて気付いた。ぎゅっと握り締めた両手を、両目に当てる。
その女性に嫉妬した。ゾロと、恋人になったり家庭を気付いたりできる、その素敵な恵まれたレディに。心底、羨ましいと思った。自分には持っていないものを、持てないものを、女性というだけで持てるかもしれないその見も知らぬ人を。
拳で目を押さえる。こうしていないと、涙が溢れてきそうだった。
「…そうだな、てめえは、息子でも、友達でもねェな」
ぽつりと、少しだけ寂しそうに、ゾロはそう呟いた。諦めたような声だった。
「それでも、てめえの飯は美味かった、誰かがいる家に帰るのは暖かくて嬉しかった、てめえの話の聞くのが好きだった、俺は本当に、そう思ってたんだ」
「…じゃあ俺でいいじゃねぇか!」
切なくて苦しくて、胸が潰れそうで。
思わずサンジはそう叫んだ。
「今更結婚なんて、しなくていいじゃねぇか、俺が、俺がずっと…傍に…」
「……サンジ?」
−あ、ゾロに初めて名前を呼ばれた
そう気付いて我に返る。
サンジははっと顔を上げて、今自分が口走った言葉を反芻する。かっと顔が熱くなるのを感じた。余韻でわなわなと奮える口を押さえる。
「てめえ、いま…」
「し、しらねぇ!もう、俺はここに来ねェ!」
ぱっと踵を返すと、サンジは鞄を引っつかんで飛び出した。ゾロが立ち上がるのが見えたが、サンジは肩越しに振り返ると、涙の浮かぶ目でにやりと笑って見せた。
「…いい人だといいな、見合い」
ぴたりと、ゾロの動きが止まる。何か言いたげに開いた口をそのままに、手を伸ばすがそれを振り払って玄関で靴を引っ掛け廊下に走り出た。
丁度止まっていたエレベーターに乗り込み、閉じるのボタンを押す。全力疾走なら負けるつもりは無い。降下するエレベーターの向こうに、一瞬、玄関のドアから飛び出す、ゾロの慌てた横顔が見えた。
エレベーターの壁に、背中をつける。少しの距離でも、食後に一気に走ったせいか横っ腹がぴきりと痛んだ。俺も年かな、と、ゾロが聞いたら苦笑しそうなことを思って、顔を伏せた。
ぼろぼろと涙があふれ出てくる。嗚咽が漏れそうで、ぐっと歯を食いしばった。喉の奥でしゃっくりみたいな声が出る。手の甲で涙を拭って、一階に着いたところでマンションを出てまた走り出した。少し足がもつれるけれど、このぐしゃぐしゃな顔を晒しながら歩くよりましだとひたすら駅までの道を駆ける。
駅近くの、駅ビルのトイレに飛び込んでばしゃばしゃと顔を洗った。
−ひでぇ顔
目が真っ赤で、瞼が腫れている。明らかに泣きましたという顔だ。
ハンカチで顔を拭き、遊びで買った伊達眼鏡を鞄から出してかけた。無いよりはましで、少しだけ鏡に向かって笑う。
はぁ、とため息が零れた。
思えば思うほど、また胸が痛くなって涙が出そうになる。
−俺は、ゾロが好きなんだ。
その気持ちは、友達の好き、でも、家族の好きでもない。この思いは、恋人の好き、だったのだ。
認めたくなんかないのに、すとんと腑に落ちてくる。
理由なんか分からない、いつからなのかも分からない、けど。
気付けば、ずっとゾロと一緒にいたいと、思っていたのだ。
「アホだ、俺」
一回りどころか、21歳も年上で、強面のオッサンで、無口で無愛想で。
すぐガキ扱いして、人をからかって。
俺も男で、あっちも男で。惚れるところなんて見当たらないのに。惚れるなんてアホとしか思えない。
でも、とサンジは思い直す。
子どもみたいに笑う顔を知っている、優しく頭を撫でる手のひらも。
ガキだといいながらちゃんと尊重してくれるところも、認めてくれているところも。
そして、笑顔で美味そうにおれの飯を喰うところも。
全部、好きで仕方が無い。
「…やっぱ、アホだわ」
くすりと笑いが漏れた。弾みでころりと名残のように零れた涙を拭う。
気持ちは多分バレた、あれは気付いた顔だった。
もう、会えない。
どんな顔して、会えばいいというのだろうか。
もう来ないと、言ってよかった。それに。
−彼女が出来たゾロなんか、見たくねェしな
くしゃりと、少し濡れた自分の前髪をかき上げる。
駅ビルのトイレの、やけに明るい照明が現実感を戻して。
サンジは苦笑するとそこを出た。
家に帰ろう、あの、汚い4畳半に。
サンジは駅に向かって歩いて行った。
もうこの駅で降りることも無いだろう、そう思いながら。



ゾロからはそれから何度かメールが来た。
日曜日はメールが無く。
月曜日には「今出た」。
火曜日には「今出た」「明日は接待」。
一日あけて。
木曜日には「今出た」。
いつものそっけない帰るコール。
それを見るだけで、ゾロの家に今すぐ飛んで行って晩御飯の用意をしたくなったが、サンジはひたすらそれを見なかったフリをした。返信もしない。
金曜日は何も来なくて、ホッとしたと同時に笑いがこみ上げて、笑いながらどんどん涙が出た。
土曜日、バイトしながら夕日を見て。お見合いうまくいったかな、と思った。
いい人だといいな、ゾロならどんな相手でもきっと幸せするんだろうけれど。
勝手にそう思った。そしてやっぱり、涙が出た。
夕日がまぶしくて目がいてェ、と、一緒に働いていた同僚にはそう誤魔化した。
日曜日、やっと涙が止まったとき、これで最後だ、と思った。もう忘れよう、と。
それでも、いままでのメール履歴もアドレスも消せなくて、サンジはそんな往生際の悪い自分が情けなかったけれど、ちゃんと忘れられたら消そう、と思い直して、また少し泣いた。



あっという間に、11月がやってきた。
ぼんやりとどこか魂が抜けたみたいにすごしていたせいか、なんだかふわふわしていて実技とレポートでミスをした。それすら、なんだか現実味が無かった。
「大丈夫か?サンジ」
学食で飯を喰っていたら、正面に座っていたウソップからそう声をかけられて我に返った。俺、何食べてたんだっけ?と手元を見れば、いつもは選ばない、油たっぷりのカツ丼で、少しだけ驚いた。半分くらい食べていたが、何だか急にお腹一杯になって箸を置く。
顔を上げ、ウソップの顔を見て、にこりと笑う。
「…なにが?」
「全部」
ひょいと指差されて、サンジは肩をすくめる。
「なーんか、先月半ばくらいからずーっと心ここにあらずなツラしてるぜ」
自分のラーメンをずるると啜ってから、ウソップはその特徴的な長い鼻をフンと鳴らした。ウソップは、サンジと課は違うが同じ系列の専門学校に通う友人だ。友達の友達、という関係で合コンで出会ったが、歳が近いこともあり、何だか意気投合してたまにこうして昼飯を食ったり飲みに行ったりしている。
「おめェさ、ずっとバイトだからって飲み断ってただろ?」
「…うん」
サンジは頬杖を付いて、水を飲みながら小さく返事をした。
「それが最近、毎日誰か誘っては飲みに行ってるらしいじゃねぇか」
あちこちの合コンにも出て、羽目外してるって聞いたぞ、とウソップは続けた。
それはウソップの言うとおりで、今までゾロのところに行っていた時間に、家に帰る気にもならず、今まで貯めたバイト代を吐き出すように飲んだくれていた。素敵なレディに会えればこの気持ちもどうにかなるんじゃないかと思って合コンも出まくっている。しかし、ゾロもこんな素敵なレディと飲んでいるのかな、と考えてしまい、余計に寂しくなって酔い潰れて帰ってくるだけだけれど。
「身体壊すぞ」
ウソップは心配げに、サンジの顔を覗き込んだ。その尖った顎を見ても、もともと細いサンジが更に痩せた気がする。
サンジはへにゃりと眉を下げ、ふるふると首を横に振った。
「…大丈夫だ」
根拠の無い強がりだと見て取れるような笑顔で、ウソップは小さくため息をつく。
付き合いはそれほど長くないが、こうやって笑っているときは、無理をしているけれど決して誰かに頼ったりしない男なのだということを、ウソップは分かっていた。
「…そうか、まぁ、無理すんな」
「ん」
心配してくれる、ウソップの優しさが嬉しかった。
でも、こればかりは自分で解決しなければいけないことだということも、サンジは分かっていた。
−どっかで、ケジメ付けねェとな
食堂のカレンダーを見上げれば、明後日は11月11日だった。
何度も心の中で繰り返した、ゾロの誕生日。
サンジはジャケットのポケットに突っ込んである、返しそびれたゾロの家の合鍵をぎゅっと握り締めた。



11月11日がやってきた。
サンジは、あれ以来初めて、ゾロのマンションへと足を向けた。
専門学校は午後からサボった。終わってから行って、うっかり早く帰っていたゾロと顔を合わせるのは気まずい。そのときに、彼女なんか連れていたら余計に。
ケーキを作る、と約束した。
それだけ、叶えたいと思ったのだ。
ゾロのために、そして、サンジ自身のケジメのために。
ケーキの型と、材料と、あと、思い切ってゾロにプレゼントも買った。
これでゾロから貰ったバイト代はすっからかんだ。何だかそれだけで半分くらいすっきりした気がする。
袋をがさがさ言わせながら、それでもかなり緊張しながらドアを開けて、その惨状にサンジは愕然とした。
久しぶりに行ったゾロの家は、想像以上に荒れていた。てっきり業者をまた頼むだろうと思っていたのに、どうやらほったらかしにしていたらしい。
いつもすっきりとしていたリビングは、うっすら埃が溜まっていて、床にはビールの缶と日本酒の瓶が転がっていた。零れた酒が乾いて、歩くと靴下がべたべたくっつく。適当に摘んでいたのだろう、つまみが乗っていたと思われる皿が何枚かと箸がテーブルに放置され、いつからそうしてあるのか、残った残飯が、表面が乾いてもう何が乗っていたのかも分からない姿になっている。
ワイシャツは無造作にソファに積まれ、もしかしたら洗わないまま着まわしているのではないかと思うほどだ。
サンジが毎日綺麗に磨き上げていたキッチンも、大して使ってはいないのだろうけれど主がいなくなるとこんなになるのかと驚くほど、きらきらしていたシンクは曇り、ガスレンジの周りは何かが飛び散ってひどく汚れていた。冷蔵庫の中は開けるまでもない。
寝室や浴室は、現時点で正直見たくも無い。
サンジは大きくため息をついた。
ケーキだけ作るつもりでいたので、大掃除の準備まではしていない。
−クソ、彼女はまだ部屋に上げてねェのか?
いずれにしてもこの部屋では上げられないだろうが。
当初の予定通り、ケーキだけ作って帰ろうかとも思ったが、時間は一応余裕がある、それにキッチンだけはきれいにしなければ作業自体も出来ない。
−やるか
サンジはぎゅっと着ていたシャツの腕をまくると、レジ袋の中身をいったん冷蔵庫に収めるためにキッチンに入っていった。

結局、3回洗濯機を回した。、皺にならなそうな下着とタオルは乾燥機に突っ込んで、残りはすべて外に干した。ワイシャツはあとでケーキを作りながら、空いた時間にちょこちょこアイロンをかける予定だ。他は、汚いだけでそこまで散らかっているわけではなかったので−そもそも散らかるほど物が無い家だ−、捨てるものは捨て、あとはひたすら床やら家具やら、キッチンのシンクも浴槽も磨きに磨いた。元に戻っていく室内を見ていると、最初の緊張は吹っ飛んで、何だか心が落ち着いてきた。
すべて終えるのに、3時間ほどかかった。3時間しか掛からなかった、とも言える。
本気を出せばこんなに早いのかと自分でも驚く記録で、ゾロに自慢したくなったので後でメモに書いてやろうと思った。
「さて」
ふぅと息をつき、冷蔵庫からケーキの材料を取り出す。
冷蔵庫の中の残飯も始末した。作り置きしていた常備菜や漬物類は、意外に全て食べてくれていた。どんな気持ちで食べたのだろう、と考えると、ほんの少し申し訳ない思いが首をもたげる。料理しなければいけないような、生ものや野菜はどろどろになったりかぴかぴになったりしていたので、泣く泣く全て処分した。
そうしたら、調味料などを除けばサンジが来る前の冷蔵庫に戻った。
彼女がこの部屋に来るようになれば、また変わるだろう、とほんの少しホッとするような、ちょっぴり寂しい気持ちになる。
−女々しいなァ、俺
ぺとり、と冷蔵庫に額をつけて、サンジは大きくため息をついた。
たっぷり10秒そうしてから、顔を上げて作業を開始する。
ケーキは専用の道具が多い、道具と材料は全て買うか、家から持ってきた。そして持ち帰る予定だ。何もここには残していくつもりは無い。
まずはスポンジだ、と、たまごと砂糖、小麦粉などを取り出して準備する。はじめてしまえば何も考えずに没頭できた。てきぱきと、使い慣れたキッチン内を飛び回る。すっかり身体に馴染んだキッチン、最後かと思うと僅かに涙が零れた。
手が離せなくて、ぺろりと舌で涙を拭う。砂糖とたまごの甘い匂いがしているのに、舌に感じる味はしょっぱい。はは、と笑いが漏れた。
ケーキのスポンジを焼きつつ、トッピングの用意をする。甘いものが苦手だといっていたゾロだが、以前サンジが作った、甘さ控えめの豆大福やどら焼きは美味しいといって食べていた。和菓子はわりと平気なようだ。あとは、果物も好きだ。
飾りは小豆の甘納豆と、季節的にりんごと梨のコンポートにした。自宅で作って、冷やしておいたコンポートを薄く切る。華やかな色が欲しくて、ちょっと高いけどイチゴも買っておいた。イチゴも洗って半分に切る。クリームは甘さ控えめにして、抹茶を混ぜた。
焼けたスポンジを冷ましている間に、いったん全て冷蔵庫に仕舞いこんでワイシャツにアイロンをかける。するするとアイロンをかけながら、ふと、洗っても香るゾロの匂いにくらりとする。唐突に、抱きしめられたときのことを思い出した。
−忘れろ、俺
か、と頬が熱くなる。ゾロの体温を思い出して、ドキドキする。
なんとなく無かったことにしてしまったけれど、あれはいったいなんだったんだろうか。今更問うことも出来ないけれど、大事な思い出だ、そう、思い出、なんだ。
言い聞かせて、ぎゅっと唇を噛む。
本当に、女々しい。
サンジは気を取り直すと、作業を続行した。アイロンをかけ終えて、ふと時計を見上げれば6時近かった。ゾロはたいてい8時ころに帰ってくる。あまりゆっくりしていればまずい。
−や、でも、今日は…
誕生日なんだから、彼女とデート、だよな
ふ、と肩から力が抜ける。自分はいったい何をやってるんだろう、と切なくなる。
ただの雇われ家政婦、友達…息子代わり?
ゾロにとって自分が何だったのか、分からないけれど、酷いことを言って出て行ったはずの俺が、自分がいないときにこんなふうに勝手やってるって分かったら、怒るだろうか?それとも呆れるか?
−恋人に夢中で、気にならないかな。
そう思ったらひどく自分が滑稽で、笑えてきて、涙が溢れる。
それを手の甲で拭って、サンジはまたキッチンにふらりと向かった。
たとえ、無駄な行為だとしても、これは自分のケジメで、儀式みたいなものだから。
冷めたかどうかを指で確かめ、均等にスライスする。作っておいたシロップを塗り、組み立てに入る。緑色のクリームが色鮮やかにスポンジを覆う。コンポートを乗せ、スポンジを重ねていく。最後にクリームで全体を塗り、デコレーションをする。
ひとつひとつ、心をこめてクリームを絞った。フルーツと甘納豆も飾って、「HappyBirthday Zoro」と書かれたチョコのプレートも飾る。なにかメッセージを、と思って、チョコレートのペンで「おしあわせに」と付け加えた。
−できた
そう思った瞬間、ぼろぼろと涙が溢れた。
すごく綺麗に出来たと思う。きっと味も美味しい。
コレを見たときに、ゾロがどんな顔するかな、とか、喜ぶかな、とかずっとそればかり考えていた。思いが溢れてくる。
どうしようもなく、ゾロが好きで仕方がない。
ケーキに掛からないように、と顔を伏せ、ばたばたと浴室に走る。顔を洗わないと、と廊下に出た瞬間、かちゃり、と鍵の開く音がした。
−え?
ドアが開く。
緑色の、ケーキのクリームと同じ色の、髪が見えて。
サンジは金縛りにあったように、浴室のノブを握ったまま固まってそれを見つめていた。俯き加減に入ってきたゾロが、顔を上げる。はっとして、ゾロもサンジを見つめたまま固まった。
しばらく見詰め合った。
ふ、とゾロの唇が動いたと思うと、靴を蹴飛ばすように脱いで上がってきてサンジの身体をぶつかるような勢いでかき抱いた。つんのめったサンジは、そのまま廊下にもんどりうって倒れこむ。背中を打って、小さく呻いた。
「ってェ…いてェよ、オッサン」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何故か笑いがこみ上げた。ゾロはぎゅうぎゅうと遠慮なく抱きしめてくる。その肩に、顔を擦り付けた。
「重いっつーの、オッサン」
ゾロは顔を上げる。笑顔と泣き顔が混ざったような、おかしな顔だった。
「…くっそ、てめえ…っ」
口調は荒いのに、優しい声。そろりとサンジの髪を撫でる手のひらが熱い。
「もう、来ねェ、って言ってたじゃねぇか」
苦笑するように唇が歪んでいる。サンジはふいと顔を背けた。
「…合鍵!返してねェし…てめえに、美味いケーキ作るって、言ったじゃねぇか、だから、さ」
「馬鹿」
ゾロの唇が、そろりとサンジの額に口付けを落とす。
「そんなの、無視しろよ。てめえ、馬鹿だろ」
「ぅるせぇ…け、ケジメだろ?つぅか、て、てめえこそ!なんで、誕生日のクセにこんな時間に帰って来てやがんだ!!デートじゃねェのかよ!」
ぽこぽこと胸を叩けば、ゾロは笑い出した。
「相手がいねェ」
「はァ?…お、お見合い、したんじゃねえの?」
「ああ、一応な」
くつくつとサンジの頭上で笑いながら、サンジの頬をするりと撫でる。
「『家政婦に惚れちまったので、申し訳ないがなかったことにしてくれ』と言ったら、相手の女性にひっぱたかれたが、まァそれだけだ」
「へ?」
見上げたゾロの顔が、ゆるりと微笑む。言葉の意味を理解して、サンジはかぁと頬が熱くなった。
「お、オッサン、今、何、て」
あわあわと震える唇に、ゾロのそれが重なってすぐ離れた。サンジはぽかんとゾロを見上げる。
「俺はてめえに惚れてる」
身体をずらし、サンジの上から身体を起こすと、横に座り込んだ。サンジは寝たまま、ぼんやりとゾロを見つめた。前よりも尖った顎、ゾロも少し痩せた気がする。
−あ、スーツの襟がよれてるよ、せっかく格好いいのに。
そんな、どうでもいいことを考えた。
「俺もなァ、いちおうは考えたんだ」
ゾロは可愛くて仕方がないと言うように、サンジを見下ろしながら金色の髪を撫でる。
「てめえの気持ちは…多分てめえ自身が自覚する前に気付いていた。だけどな、まだ若ェし、やり直しも効く。こんな40過ぎのオッサンのことなんか忘れちまって、ちゃんとした人生歩んだほうが、てめえにとっても幸せだ。てめえが、ちゃんと結婚して、子ども作って、死んだ両親に顔向けできるようにしてやりてェと思った」
する、とサンジの頬に手を当てる。ゾロの細められた瞳が、ほんの少し切なげに歪んだ。目の奥の金が揺れる。
「だから、見合いするって言やぁ、てめえが諦めると思ったから、セッティングしてもらったんだ」
「なんだよ、確信犯かよ…」
サンジが涙の滲んだ目で睨みつけ、口を尖らせると、悪かった、とゾロの手が柔らかく額を撫でた。
「まさかそこまで本気だとは思わなかったしな」
それでも、とゾロは続ける。
「これで、もうてめえに会わねぇなら、それで俺もてめえも諦められるなら、それでいいと思ってたんだけどな」
何で来たんだ、と、唇をゆがめて、でも酷く嬉しそうな顔でゾロは囁いた。
またぼろりと涙が零れる。サンジは手で目元を覆った。
「てめえに、ケーキを」
「それは分かった」
「オッサンが、喜んで、くれたら、笑って、美味ェって、それだけで、俺ァ…」
もう言葉にならなかった。喉の奥から、今まで堪えていたものが全部出るみたいに、うわぁぁ、と、吼えるような声が出た。ゾロが、抱き上げてぎゅうと抱きしめる。その胸を、ワイシャツが皺になるほど握り締めて、サンジは泣きじゃくった。しゃくりあげて、げほげほと咽ながら、それでも全て吐き出すかのようにひたすら声を上げて泣いた。ゾロはそんなサンジの頭を、背中を、ただ優しく優しく撫でていた。
しばらくすると、サンジは、はぁ、と大きなため息をついてから、けほけほ、と咳をして、やっと顔を上げる。真っ赤で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、でもすっきりした顔をしていた。ゾロはそんな顔が、心底可愛いと思った。
「オッサンのクセに」
「悪かったな」
「人の幸せ、勝手に決めるなっつーの」
ゾロはふ、と顔を緩め、サンジの顔を覗き込んだ。
「…そういうわけにゃいかねェよ、俺のほうが大人だから」
「それが勝手だっつぅの!」
ぽこ、と胸を叩く。
「俺の幸せくらい、俺に決めさせろ」
「…そうか」
ゾロはそっと、サンジの髪に口付け、それから顔を埋めた。
「悪いが、俺はもう、てめえを離せる気がしねぇぞ、分かってるか?」
「ん?」
くすぐったくて、サンジは少し笑いながら目線だけゾロを見上げた。
「年寄りのはしかのほうが重症なんだ、てめえに逃げられたら俺ァ立ち直れねぇぞ」
「逃げねェよ」
サンジは、ゾロの首に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
「安心しろ、ヨボヨボになっても、下の世話までしっかりしてやるよ」
ジジイの扱いにゃ慣れてんだ、とサンジが笑って。ゾロは苦笑しながらも、その身体をもう一度きつく抱きしめた。



ケーキを見て、ゾロは本当に喜んだ。
メッセージを見て、眼を細め、サンジにキスを落としながら、「俺とてめえでな」と囁かれた。気障マリモ!と舌を出して笑ったら、ぎゅうぎゅうと絞められてまた笑った。
しかし、先に飯が食いてェと言われて、サンジはゾロと一緒に−ゾロもついていくといって聞かなかった−慌てて買い物に走った。酒と食材を買い込み、ほんとはもっと手の込んだものが作りたかったとサンジはぶつくさ言いながらてきぱきと料理をして、充分に豪華な食卓を作り上げた。
シャンパンで乾杯して、ビールを飲んで、ご飯を食べて、二人で笑いながらこの1ヶ月の間の話をした。たった一ヶ月弱しか離れていないのに、すごく久しぶりな気がして楽しくて仕方がない。ある程度食事がひと段落したところで、ケーキを出した。
ちゃんとろうそくも買ってあったから、42本は難しいよなァと、大きいの4本と小さいのを2本立てて火をつける。子どもみたいに、ゾロは笑いながらそれを吹き消した。
ついでにサンジは、プレゼントを出した。ゾロに似合いそうな、深緑のマフラー。オッサンだから、風邪ひかねェようにしないと、と言うと、可愛くねェな、と笑いながらキスをされた。
一緒にケーキを食べながらも、合間に、たくさんキスをした。
ケーキの生クリームが、もうどっちの口のものか分からないくらい。
食べ終わるころには、サンジがとろとろに溶けていて、ゾロはそのままサンジを抱え上げると寝室に向かった。

ぎしり、とベッドが二人分の重みで軋む。
何度も通った場所なのに、そういえばベッドに寝るのは最初以来だと気付いて、サンジは何だかどきりとした。ゾロの手が布団をめくり上げ、押し倒されて触れたシーツが火照った頬にひやりと冷たくて、急に恥ずかしくなる。
「寒いか?」
首筋に顔を擦り付け、サンジのシャツのボタンを外しながら、ゾロが囁く。サンジはその頭にしがみつきながら首を振った。シーツは冷たいけれど、重なるゾロの身体が熱い。そして多分、すぐにシーツも熱くなる気がした。
顔を上げたゾロと視線が絡む。吸い寄せられるように口付けた。舌を絡め、まだ少し甘さの残るお互いの口内を貪る。吸い上げて、溢れる唾液を飲み込んだ。
ゾロの手が、サンジのシャツを掻き分けて胸を弄る。尖りに触れて、ぎゅ、と摘まれると擽ったくて唇を離し、身体をよじった。
「ゾロ、それ、くすぐってぇ」
「ん?」
そうか?と楽しそうに、顔を落とすとそこに舌を這わせる。ぐりぐりと押し潰して、ちゅぅと音を立てて吸い上げられて。逆も同じように、指で弄られる。繰り返されると、擽ったさだけじゃない感覚がぞわぞわと上がってきて、あ、と小さく声が出た。
「ぅん…ん」
恥ずかしくてその緑色の髪をわしゃわしゃと撫でても、ゾロの頭はびくともしない。
「いいか?」
分かっているくせに、そういうことは言わないで欲しいと思いながら、サンジは顔を背けた。楽しそうな、ゾロの含み笑いが聞こえる。
ゾロの逆の手が、脇から腹に伸びて、臍、そして下肢へと移動していく。かちゃ、とベルトを外す音がして、サンジはぐっと両足を摺り寄せる。ホックが外され、ジッパーが下ろされて、すでにがちがちに立ち上がったそこを下着越しにするりと撫でられた。
「いいみたいだな」
「…っ、ぅるせぇ」
反論したつもりが、酷く甘ったるい声が出た。ゾロはまた少し笑うと、身体を起こして自分も着ていたワイシャツと、その下のTシャツを脱いでベッドの下に放り投げた。胸に斜めに走る傷、それ以外も、傷だらけの身体。サンジはそっと、それに手を伸ばして指でなぞった。
「痛そうだな」
「…もう古い傷だ」
ゾロは傷を撫でていたサンジの手をそっと取って、その手のひらにも口付ける。人差し指を口に含み、唾液を含ませるようにくちゅくちゅと舐めた。
「や…っ」
背中がぞくぞくとする。ゾロは指に柔らかく歯を立てた。
「てめえが、料理してるときの、この指見てると興奮すンだ」
色っぽくてな、とゾロは愛しげにその手に頬を摺り寄せる。サンジはかぁと頬が熱くなった。
「てめ、そんな目で…」
「見るさ、惚れてるからな」
ふん、と笑われて、サンジはぱくぱくと口を開ける。
いつも飄々としているゾロが、そんなこと考えていたなんて全然分からなかった。
ゾロの手が、サンジのスラックスを下着ごと下ろす。その弾みで立ち上がったサンジの竿がぶるんと蜜を散らしながら飛び出た。ゾロの、ごつくて長い指がそれに絡む。
「…もう、ズルズルだな」
満足げに笑うゾロの顔が、たまらなく艶があってサンジはぼうっと蕩けた顔でそれを見上げた。笑うと、頬に浮かぶ皺が、自分よりもずっと年上であることを思い出させるのに、その日焼けの残る身体は想像以上に引き締まっていて綺麗で。
「身体中、どこもかしこも白いと思ったが、ここも白くて綺麗だ」
身体をかがめ、ちゅる、とサンジの蜜を舐め取る。ひゃ、とサンジは思わず身を引いた。
「な、舐め…」
「てめえのモンは、なにもかも美味いぞ」
先を口に含んだまま、喉の奥を鳴らすように笑われて、サンジのものがゾロの口の中で質量を持ち、ぶるぶると震える。実は手淫もあまりしないほうで、性欲が薄いほうだと思っていたのに、今はどうだろう、だらだらと蜜を垂らして浅ましいほどに赤く染まっている。サンジは見ていられなくて、天井を仰ぎ熱を逃がすように首を振った。
じゅ、と唇をすぼめて先を吸われ、手でくちゅくちゅと擦られる。いやらしい水音しか聞こえなくて、それだけで達してしまいそうだ。
「ゾロ…もう、や…はなし、て」
サンジは喘ぎの合間、切れ切れに懇願するが、ゾロは聞く耳持たないとでも言うように余計に強く吸い上げた。その弾みで背中が大きく反り、一気に追い上げられる。金糸がばらばらとシーツに乱れ、何かを掴むように突っ張った足指がぎゅっと丸まった。
「も、イく、イ…くっ、あ」
頭の中が、弾けるように白く染まり、サンジの先からも白濁が溢れた。びゅ、びゅ、と震えながら長く、何度も吐き出す。口を離したゾロは、口の中の白濁を手のひらに吐き出すとニヤニヤと笑う。
「…濃いなァ、自分じゃあまりしねェのか?」
返事も出来ず、視線だけ向けて睨みつける。蕩けた顔で睨んでも意味があるかどうかは分からないが、それを肯定と取ったのかゾロは更に顔を緩める。
「俺ァ何度てめえで抜いたか、分からねェのに」
ゾロはそう言いながら、口の端についた白濁を舌でぺろりと舐め取った。
「な、な、な…」
サンジが信じられないという顔でゾロを見ると、ゾロは肩をすくめた。
「なんだ?」
「てめえ…信じらんねえ…飲むし、ンなこと言うし…最悪だ」
ぱたりとベッドに両腕を投げ出すと、ゾロが上からぎゅっと抱きしめてきた。
「…エロオヤジで、嫌になったか?」
耳朶を噛まれ、囁かれて、サンジははぁと吐息をついた。
「…嫌だったら、とっくに蹴ってる」
「そうか」
ゾロはまた身体を起こすと、サンジの身体を裏返して腰をつかみ上げ、白濁が残る手でサンジの尻を割るように掴んだ。そして、奥の固く窄まった孔を、ほぐすようにゆっくりと舌を差し入れた。
「ん…!?」
枕に顔を押し付けたまま、サンジは呻く。自分の指でもろくに触れたことのない場所に、ぬめぬめした柔らかいものが意志を持って割って入ってくる感覚に、全身が一気に粟立つ。白濁を塗りこめるように、ゾロの指も一緒に、ずる、と入ってきて、更に圧迫感が強くなった。
「ゾ、ロ…それ、ヤダ、無理…っ」
「無理は、しねェから」
優しく腰を撫でられ、いったん舌を引き抜いて、ゾロはサンジの震える背中を撫でながら宥めるように何度も口付けを落とした。肩甲骨の辺りをそろりと舐め、噛まれると、サンジは甘い声を上げた。
その間にも、第一関節だけ入っているゾロの指が、ゆるゆると内壁を擦り、慣らしていく。それが気持ち悪くて仕方ないのに、ゾロの身体の一部が自分の中にあるという感覚に、頭の中のどこかが馬鹿になったみたいに嬉しくて恍惚としている。
恥ずかしくて、気持ち悪くて仕方がないのに、どこかで、ゾロの太い砲身で早く突き上げられたいと思う自分がいる。早くめちゃめちゃにされたい、心だけでなく身体も、ゾロのものにして欲しい。
「ゾロ…ゾロ…」
はぁはぁと喘ぎながら、何度も名前を呼ぶ。熱を帯びた漏れる息が、溢れる涎が、枕にじっとりと染みを作るのに喘ぐのを止められない。そうしていないと身体の中に熱が溜まっておかしくなりそうなのだ。
「好きだ、てめえ、たまらねェな…」
耳元で聞こえるゾロの低い声が、蕩けそうなほど甘い。甘くて甘くて、くらくらと酔ってしまいそうで。
気付けば指が増やされている。ひやりとした液体がとろとろと尻をぬらして、くちゅくちゅと濡れた音を立てる。ローションだ、と、ゾロが笑いながら囁いた。それを感じている間に、入り口がじわりと熱を帯び、だんだん指に抵抗を感じなくなってきた。増えた指がまばらに体内で動いて、時々その指先が掠める場所が、頭の芯まで痺れそうなほど気持ちがいい。
指が更に増え、ぐっと奥まで入り込んできて、今まで微かだった痺れがある箇所に触れた瞬間、飛び上がるほど身体中に広がった。びくびくと背中が反って震える。
「や、そこ…っ」
「ここか?」
ゾロの声が、笑いを含んだものに変わる。執拗に指がそこをめがけて蠢く。
「や、やだ、やだ…っ」
ぶんぶんと首を振るが、はげしく襲ってくる刺激に身体中がびくんびくんと跳ねる。それをとめることもできなくて、勝手に涙が溢れてきた。気持ちよくて、おかしくなりそうなのに、それが怖くて逃げたくなる。
「ゾロぉ…もうやだぁ…」
懇願のような、すすり泣きのような声が漏れる。苦しいのに蕩けるほど気持ちがいい。尻穴から身体全てが蕩けて流れ出してしまいそうだ。
「もう…悪ィ、俺も限界だ」
ずるんと勢いよく指が抜けて、サンジの腰が崩れ落ちる。
ゾロはかちゃかちゃと忙しなく前を開け、スラックスと下着を脱いで投げ捨てると、急に圧迫するものがなくなってひくひくと口をあけて欲しがるように見えるその穴に、熱く猛る自身の砲身を押し当てた。既にとろとろと溢れていた先走りを、塗りこめるようにゆぅるりと腰を動かす。
ひくり、とサンジの背が震えた。サンジの唇から、嬉しさの混じる吐息が漏れる。
つぷ、とゾロの砲身が、サンジの中に差し込まれた。指よりもずっと太くて、熱いそれが、内壁をめきめきと押し割って、身体の中に入ってくる。ゆるゆると、行ったり来たりを繰り返しながら、ローションのぬめりも手伝って少しずつ奥を目指す。
−ゾロの、熱い
痛みはそれほどないけれど、そこから身体が裂けてしまいそうな圧迫感。と同時に、身体の中を犯されているという快感。何が辛くて気持ちよいのか、蕩けた頭ではもう何も考えられなかった。
時間をかけ、ゾロの身体がサンジの尻に当たる。ほ、っと思わずサンジの息が漏れた。
「…全部、入ったな」
「信じ、らンねェ…すげ」
サンジは、は、は、と短く息を吐く。意識して力を抜いていないと、異物感でぎゅうと中を締め付けてしまいそうだ。多分、自分だけではなく、まだゾロも締め付けが痛いだろう。
「…少し、動くぞ」
「ん」
ゾロはそういうと、サンジの腰を柔らかく揉みながら、そろそろと腰を動かし始めた。いったん中ほどまで引き抜いて、ローションを足すと奥まで入れる。ぱちゅ、と弾けるような濡れた音がして、恥ずかしくなる。
それを繰り返されるうちに、だんだんその中に快感が掠めるようになってくる。指よりも、ずっと熱くて圧迫感のあるものが、先ほど痺れるほどの快感をくれた箇所を何度も擦り上げた。痛みや圧迫感を超えるほど、その感覚が強くなってきて。サンジはだんだん自分から腰が揺れ始めるのを止められなかった。
「ゾ、ロ…どうし、よ」
「ん?」
枕に顔半分を押し付けたまま、横目でサンジの綺麗な青い目がゾロを見上げていた。涙が溢れて、快感で蕩けて、ゆらゆら揺れている。
「こんな…気持ち良いの、俺、おかし、くねェ?」
ふ、とゾロは息を吐き、サンジの背を持ち上げて顎を掴み、唇を重ねる。甘く溶けた舌を吸い上げ、唾液を交わす。
「おかしくねェから、もっと、俺でおかしくなれ」
耳元でそう囁けば、サンジはふわと笑い返す。
その笑顔が、ひどく綺麗で、愛おしかった。



「くっそ、信じらンねェ、42歳…」
ぶつぶつと文句を言うサンジに、冷蔵庫から水を持ってきたゾロは可笑しそうに笑った。サンジは目下、いわゆる足腰が立たない、という状態になっている。
背中を支え、身体を起こしてやって、コップに入れた水を手渡す。サンジはそれをゆっくり飲んだ。喘ぎすぎて、枯れた喉に冷えた水が心地よい。
「仕方ねェだろ、オッサンは量より質なんでな」
「…だからって、こんなやらねェでもいいだろ、初めてだぞこっちは」
睨みつけても、実はそれほど怒っていないのがばれているのか、ゾロは気にした風もなくサンジの身体を横から抱き寄せてその金糸に顔を埋めた。
「…煙草も」
サンジがそういえば、へいへい、と拾い上げた服から煙草とライターを取り出して手渡した。灰皿をどうしようかと思っていれば、サイドボードから取り出してサンジの前に置く。
「…オッサン、吸ってたのか?」
「いや、お土産で貰ってそこに入れっぱなしだった」
てめえが使えばいい、と言われてよく見れば、確かに底に観光地の名前が入っていた。おしゃれな寝室に似つかわしくない、ダサい灰皿にサンジはつい噴出した。
「こんなこじゃれたマンションに住んでるくせに、意外と適当だよな」
煙草に火をつけながら笑ったら、ゾロはふんと鼻を鳴らした。
「この部屋は、家具もキッチンもモデルルームのそのまんまだ、俺のセンスじゃねェ」
めんどくせェから全部そのまま業者から買い上げた、と、さらりと言われてサンジはさらに驚いた。なるほど、この無頓着そうな男が揃えたにしちゃ、妙にハイセンスで統一感があると思いきや納得だ。
「…まぁ、その豪快さは良いと思うぜ」
「めんどくせぇのは嫌いでな」
ゾロはサンジの後ろに回ると、背後からその自分よりも一回りほど細いサンジの身体をゆるく抱きしめながら、肩に顎を乗せる。
サンジは抱きしめられたまま、ゆったり煙草を吸うと、それを灰皿に擦り付けた。
「大した趣味もなけりゃ、お洒落でもねェし、拘りもねェ。まぁ、俺ァつまらねェ男だよ」
サンジが煙草を終えるのを見計らったようにそう言ってから、ゾロは、ふ、と息を吐き、苦笑する。その、妙に自嘲気味の笑いが気になって、サンジはそろりと横目でゾロを見つめた。ゾロは、それに少し微笑み返すと大きく息をついた。
「…競馬場に、何で行ったか話してなかったな」
「あ、そういやそうだ」
そういえば、聞きそびれたままだった。
「俺ァ、ぶっちゃけ30代前半くらいまでは結構もてたんだ、これでもな」
急にそういわれて、サンジは眉を寄せる。まぁ、それは分からなくもない。何の自慢だよ、と言ってやろうかと振り返れば、わりと真剣な顔をしていたから口を閉じた。
「34のとき、だな。資材置き場で資材が崩落して…全身大怪我をした。胸の傷も、目も、そん時についたんだが」
ゾロは自分の左目を指でなぞる。もう開かない、目の上を走る傷。
「それからは、まぁ、結婚するのはちょっと、と倦厭されはじめてな」
なんとなくだけど、分からなくもない。付き合うだけならば良いけど、結婚するときに多分こういうことは、些細だけど大きなことなのかもしれない。
「それでも、付き合う女性がいなかったわけじゃねェ」
でな、と言葉を続ける。
「競馬場に行く、一週間くらい前だな、結婚前提にして付き合っていた、つもりだった女にフられたんだ」
つまらねェ、と言われた。
面白い話をするわけでもない、一緒に出来る趣味もない、家事も炊事も出来ない、収入も悪くはないけど飛び抜けているほどではない、結局、あなたといてもつまらない、とそう言われたのだと。
ゾロはそう話してから、また少し自嘲気味に笑った。
「その通りだと思ったわけだ、俺ァ真面目に仕事して、たまに趣味で剣道の道場に通うくらいしかすることのねェ、つまらねェ男だってな」
「そ、そんな、こと」
息巻いて反論しようとしたら、まぁ待て、とゾロは優しく手で制する。
「それで、競馬場に行ってみたわけだ」
「へ?」
その飛躍についていけなくて、サンジは首をかしげた。ゾロは可笑しそうにくつくつと笑う。
「俺も今となりゃそう思うけどな、なんか、こう、今までやったことのない、ちょっと崩れたことをしようと思ったんだ、真面目じゃねェことを」
それで競馬をしようと思ったのか、何だか分かるようで分からない。
けど、気持ちは分かる。ちょっとだけ自棄になって、ちょっとだけ、いつもと違うことがしたかったのだろう。そういうことは、確かにある。
「で、馬券を買ってみようと思ったけどとんとわからねェ、一時間もぶらぶらしてて、失敗したなァと思って、もう帰ろうかと思ったときに、てめえに会った」
そう呟いたときに、さっきまでと違う、ふわりと優しい光がゾロの目の奥に宿った気がした。
「…そっか」
サンジは、肩に顎を乗せたゾロの頭に、コツ、と自分の頭を寄せた。
「…あの、馬、何で買ったか分かるか?」
いたずらっ子のような表情で、ゾロはにやりと笑うとサンジの頬に口付ける。
サンジは首をかしげ、それからふるふると横に振った。
「名前だ」
「名前?」
そういえば、なんて名前の馬だったっけ。さっぱり思い出せなくてゾロを見ると、ゾロはまた可笑しそうに笑った。
「『ウンメイノヒト』って、名前だったんだ」
サンジはきょとんとゾロを見つめ、ゾロもそれをニヤニヤしながら見つめ返し、それからゾロと一緒に大声で笑った。
「す、すげぇ…オッサン意外にロマンチスト?」
ひーひーと腹を押さえてサンジが笑い転げると、ゾロは一緒に笑いながら、まァな、と返す。
「オッサンってのは、誰でも意外にロマンチストだぞ」
そういいながらサンジを抱き寄せ、口付ける。
「おかげで、てめえが手に入った、お馬様様だ」
「ばーか」
サンジは照れくさくて、そう返してからゾロに自分から抱きついた。
お互いが、お互いの運命の人に出会えた喜びを分かち合うように、二人で笑った。


ゾロ☆Happy Birthday 2015

出逢いは競馬場
想定外の始まりで思わず「おおっ」と声が出ました。
駆け引き上手のゾロに顔がニヤケます
この先、おっさんゾロの手練手管にサンジが翻弄されるのか?
それともゾロがサンジの掌の上になるのか?
楽しい作品をありがとうございました! ぱた

冒頭からいきなり物語の中にぐいぐい引っ張り込まれました!
競馬場ってダメ方向な大人(失礼v)の悲喜こもごもが詰まってる感じで、独特の雰囲気ですよね〜。
出会いの場をそこに設定したひろむさんのセンスに脱帽ですv
オットナ〜なゾロと、まだウブな感じが抜け切れないサンジv
ありがとうございました! ひか